ドガとヌード展


縁のある画家とない画家っていうのはいて、ドガは不思議と縁がある。そもそもお姉ちゃんがドガ好きで部屋中に飾ってたので親近感があったし、2010年の横浜の大規模なドガ展も、心の余裕がある時期にじっくり観れた。逆に縁がないのはルドン。渋谷のルドン展、仕事でちょう忙しいときで観に行けなかったこと、今でも後悔してる。



何ヶ月か前、初めてレピュビュリックの駅構内で今回の展覧会名見た瞬間、沸き立った。「ドガとヌード Degas et le nu」。なんてぐっとくるテーマ。ドガなのに踊り子でも馬でもカフェでもないんだよ!ヌードだよ!女子のヌード!なので、今回は行く前に周到に予習して行った。いつも行ってから気分盛り上がって帰って調べるパターンなので、よく知ってから行こうと。サロン・ド・リーブルで買ったフィガロドガ特集誌を読み込む。


ドガのいた当時のボザールは、アングルに代表されるような古典主義が全盛だった。ブルジョワジーが興隆した19世紀のフランスでは「永遠の美は既に発見された」という考えが一般的で、それには過去の美術の再現、複製で十分だという、硬直したアカデミズムがボザールを支配していた。なぜなら、その過去の美こそがすでに歴史の行き着いた先であるのだから、と。ドガも多分にもれず、ボザールでコンクールを受けて、ローマでのイタリア芸術研修の切符を手にした。今回の展覧会にも、その頃のミケランジェロたちの模写がたくさん展示されてる。上手かというと美大生の模写レベルだけど、関節の表現が秀逸。だからルネサンス期の手足を不自然なまでに四方にのばしたダイナミックな彫刻などは、模写の素材としてうってつけだった。そしてこの時点ですでに「日常生活でする若干無理めな姿勢」への偏執狂的なこだわりの片鱗が見える。


若い頃に普仏戦争と重い眼病を経験したドガは、新興ブルジョア家系であった叔父や兄弟を頼って、アメリカのニューオーリンズへ渡る。この頃から、ドガは古典的な手法で現代人を描くという独自のスタイルを歩み始める。そしてパリへ戻ってからの1870年代後半から、ドガ的な現代生活へのまなざしが作品となって立ち上がってくる。ドガがテーマに選んだのは以下のキーワード。「ペディキュア、拗ねた顔、銀行家、メランコリー、室内、不法侵入、コンコルド広場」。ベティキュア…!


ドガの描いたヌードは、アングル的なオダリスクではなく、ローマ彫刻のような立身像でもなく、お風呂につかって足を洗ってる姿とか、お風呂上がりに髪を拭いてる姿とか、本当にごくごく日常の風景であり、しかしそれまでの美術界で描かれ得なかったものだった。ドガは手法や主題を発明したのではない。女性のヌードという凡庸なモチーフに新しいエロスのまなざしを持ち込んだんだ。それがいかにもモダンであり、観る人々に絶妙な興奮を覚えさせる。無防備に身繕いする女性というのは、被写体の自意識が抑えられているおかげで、身体そのものの質感や量感が際立つ。しかもその場に居合わせるということの特別な親密さ(intime)、あるいは本来隠されている瞬間を見てしまうことの背徳感、しかしほとんどの絵がすべすべの背中しか見えてなくて、乳房や陰部がさらけだされていないことによる処女性の確保、そういうものがないまぜになってドガ的な女性のエロスが完成する。


舞台裏、裏話、秘密裏、裏事情。表の華やかで明るい世界の裏にある暗さや秘め事を知りたがるのって、下世話な好みだ。でもその下世話な興味の本質は、「人間は何を隠したがっているか」をおもしろがる普遍的な心理だと思う。わたしの好きな小説家がある編集者に言われた話。「あなたが一番はずかしいと思う話を書くべきだ」と。日常生活で、わたしたちは不格好な部分やだらしなさを、仮面の下に隠しながら生きている。その隠された部分にこそ、その人の本質が出る。服飾のモードが商業として発達しはじめた19世紀後半、市民の女性たちが外見的な装飾を追求しはじめたのと、ドガやマネがどこにでもいる普通の女性のヌードを美術の世界に持ち込んだのが同時期なのは興味深い。秘すべきものをサロンに出してスキャンダルになったことで、その時代の人々が何をタブー視して、何を美術の世界から排除していたのかがあらわになった。マネの『草上の昼食』でいえば、野外スワッピング。ドガの『室内 Intérieur (Le Viol)』でいえば強姦。
ちなみにドガは、鳥居清長作の江戸の湯屋の浮世絵を愛蔵していた。当時は今とまったく反対に、日本のほうが裸体と着衣の境目が曖昧で、フランスのほうが内と外をきっぱり区別していた。だらしなく浴衣をはおる女性の色っぽさは、ドガの背徳感と好奇心をたまらなくそそったことだろう。


ドガ展はパステル画があるのでいつも照明が薄暗い。ドガ自身、戸外のまぶしさが苦手だったために室内風景が圧倒的に多い。窓から入る日中の光と、お風呂上がりの女性の清潔な肌の質感。ルノワールが女性の身体に触れたときの量感を再現する画家だとしたら、ドガこそ目で女性の肌を愛撫する画家だった。しかも後ろからこっそりと。だからドガの絵は何歳になっても、思春期の少年の覗き見みたいなみずみずしさがある。