Defiled

 


熱海殺人事件、広島に原爆を落とす日、Defiledと、2年ごとにここで書いていることになる。重い作品が好きな傾向はあるが、それ以上に重い役を背負う戸塚祥太が好きなのだろう。しかしそれでも、熱海と広島は、作品としての引力の圧倒的な強さにねじ伏せられた感があった。Defiledは違う。脚本も演出も秀逸だけれど、強引に押し付けられたのではない。こちらから糸を手繰り寄せて、ハリーのかすかな仕草、かすかな表情から、言外の意味を読み取り、語られていないシーンに思いを馳せ、ハリーの気持ちを掬い取るような観劇だった。どうしてこんなにもハリーのことを特別大切にするのかといえば、それはもう、ハリーはわたしの一部が体現されたものだからだ。


この作品に、ハリーとブライアンの断絶を見出す人もいれば、ハリーの人生における失意に注目する人もいる。文字通り、デジタルとアナログの問題として見る劇評さえある。しかしわたしにとっては、最初から最後まで「本」の話だった。


本は女以上に多くのものを与えてくれる。友達も恋人もいなかったハリーにとって、本はそれらによって満たされなかったの空隙を埋めるようなものでもあった。本の特性のひとつに、手元において二人きりになれる、というものがあると思う。まるで自分とその本以外の世界が消えてなくなったかのように、本を自分の所有物として独占して、二人きりで会話をする。本にはそういう時間を与えてくれる機能がある。美術館で見る絵画や、映画館で見る映画では、それは叶わない。


本を胸の上に置いたまま眠ってしまうこととか、地下鉄の駅と駅の間でも読書にふけってしまうあの感じとか*1。ハリーの言っていることは、とてもよくわかる。わたしだけじゃなくて、きっととつかくんもその気持ちをよく知ってる。なぜなら、わたしとハリー、ハリーととつかくんの読書の共通点は、「何かの欠落を埋めるために読書を始めた人」だから。本当に生まれつき読書することが当然の環境で生きてきた人は、そういうことを強調しない。


ハリーの場合は、自分のことを理解してくれない父親や、自分を裏切った元恋人が、その欠落だったと思う。ブライアンとの会話にあったように、本は興味がなくなったら横に置いておけるし、本のほうから裏切られることもない。本は優しい。静かにそこにあって、読む人をいつでも受け入れてくれる。それは、自分の愚かさや無力さを思い知った人間が、壮大な活字の宇宙に包み込まれてすべてが許されるような慈悲の心に触れる、崇高な宗教体験でもあるのだ。そう、読書というのはアニミズム的宗教である。一冊一冊の本に宿る霊性を感じ取りながら、永い人類の歴史と、豊穣な文学の海に抱かれて、自分はなんと矮小な悩みに拘泥していたのかと気づき、人は救われることがある。自分にはまだ読むべき本があり、それらの本は自分がその本を見つけ出しアクセスするときを静かにじっと待っている。だから自分から働きかけなければならない。それはなんと希望に満ちた世界だろうか。


その静かで優しい宗教の支持体として存在する施設が、図書館なのである。公的機関でありながら、誰も話さない、ひっそりとした空間。目眩がするほどぎっしりと並べられた本。2000年前の哲学者の書いたものにも、4000年前の数学者が考えたことにも、ここから接近することができる。図書館が宗教そのものなのではなく、その背後にある壮大な世界の入り口として各地に存在する端末が図書館なのだ。


その図書館を爆破しようとしていたハリー。彼が行おうとしていたのは、この端末のひとつを破壊することだろうか。もちろん、違う。それはまったく意味がない。彼が危惧していたのは、「本の世界」というひとつの宗教が、「資本主義」という別の信仰によって侵略されていくことだ。家族や恋人との関係をうまく保てなかったハリーが逃げ込んだ、本の世界という神聖な領域。それが世俗的なものにとってかわってゆく姿を見たくない、それなら僕の愛した本とこの美しい図書館ともども心中するまでだ、というのがハリーの主張だった。ひとつの端末を破壊することで、かつて僕を救ってくれた本の世界の崇高さを守ることができるなら。せめて、図書館がハンバーガーショップのような卑俗な施設に成り下がるのに歯止めをかけることができるなら。ハリーにとって、リアルとは、結婚して子どもをつくって幸せになることではなく、過去の惨めな自分を慰めてくれた図書館とともに殉死することだった。世の中には「美しいものを美しいままで残したい人間」と、「美しいものがどんなかたちになろうとも愛せる人間」がいる。ハリーは前者で、ブライアンは後者だった。そして、ほとんどの人間は、人生経験を積むごとに、前者から後者へと移行する。だから、ハリーとブライアンは2種類の相容れない人間なのではなく、あらゆる人のなかに流動的に備わっている類型の象徴なのである。


ヘンリー・ジェイムスの手書きの原稿に触れた瞬間、エネルギーが伝わってきたというハリー。あれはまさに、聖骸布の暗喩だったと思う。実はわたしが初見のときに鳥肌が立って泣きそうになったのは、このシーンだった。なぜなら、わたしも同じ体験をしたことがあるから。デジタルの複製でもアナログの複製でもないオリジナル、その代替不可能な緊張感というのは筆舌に尽くしがたい。
そしてハリーがそのことを口にする意味。演劇というのは、人々が常時オンラインで複製された写真や音楽や映像を享受しているこの時代において、数少ない「一回性」かつ「オリジナル」を守り通している領域だ。それでいて、演劇は歴史上ほとんど常に、大衆のためのものであった。悲劇も喜劇も、人間の愚かさと滑稽さがいつの時代も変わらないことを描く。わたしは今回Defiledの原著を読んでから観劇したけれど、脚本を読んでいるとわからないことが、戸塚くんと勝村さんが演じることで生き生きと立ち現れてくることがたくさんあった。ハリーの黒猫っぽさとか。30歳の戸塚くんが演じるハリーにしか表せない何かは無限にあって、それはどんな書物でも記録しきれないし、数世紀後に図書館で上演の様子を追跡することはできない。図書館は宇宙のようだけれど、有限の宇宙だ。わたしは本というメディアを愛しているけれど、舞台に足を運ぶたび、目の前の生に心を奪われる体験をする。だから、わたしは図書館を爆破しないでいられるんだと思う。素敵な喫茶店スターバックスになっても、街角がコンビニだらけになっても、それが嫌悪することであれ歓迎することであれ、これが確かに戸塚くんもわたしも生きている社会だと思うからだ。



 

*1:台詞うろ覚えですみません