広島に原爆を落とす日


「広島に原爆を投下する」という方法で日本と恋人を愛したディープ山崎。わたしは初見でそれがすんなりと、何の抵抗もなく理解できてしまった。だからわたしにとってはこの作品はそれがすべてだった。語弊を恐れずに言うならば(というか、つか作品自体が語弊しかないようなものだけれど)、自分に置き換えて考えてみると、無辜の四十万人の市民を犠牲にしても自分の大事な人への愛情は余りあるものだと思ってる。正気でそう思う。世界中を敵に回しても君を守るよ、と言うのは簡単なことだけど、四十万人を虐殺しても君を愛してる、と言えるだろうか。つかこうへいが提示したその「究極」は、言葉で説明すると全然別物になってしまうけれど、わたしは理屈ではなく「ああ、わかる」と思った。ただし、自分が誰かを大事に思うような気持ちを、その四十万人のひとりひとりが持っている。その想像力によってわたしは無辜の人々を虐殺したりはしない。そして自分がそのような必然に置かれていない。それだけのこと。


この『広島』という荒唐無稽なフィクションにそういう反応をした観客はおそらく少数派だと思う。でも、わたしという個人にとっての本質的な話は、上記がすべてだ。しかし何度か観劇しているうちに、もう少し客観的な考えが降りてきて、それについて考えることが、この舞台を観劇するときの不安感や内容に関する不明瞭さを解消してくれるように感じたので、以下に書いておこうと思う。そう、わたしは不安だから「考える」のだ。


  • 「聖なる排他的存在」としてのディープ山崎

まず、この作品におけるディープ山崎がどのような存在として描かれているのかについて、わたしの理解を書く。


ディープ山崎の特徴は、欠損と純粋さである。欠損とは主に2点、純日本人でないこと、真珠湾攻撃を起案した人間であること(念のために書くけれど、純血でないことが欠損だと言っているのではなく、彼が当時のどのように扱われていたかを考えたときにそれが条件を満たしていないものとして受け取られるということ)。後に真珠湾攻撃が原爆投下の言い訳として使われることからも、実はこの真珠湾攻撃に関わっていたというのがすでに、日本軍にとってもアメリカ軍にとっても都合の良い「悪」の押しつけになっていたのではないかと思う。そして純粋さというのは、まずまっすぐな愛国心。それも山崎の愛する「国」というのは常に、国家や国体ではなく、美しい山河のことであり、公平な社会のことである。もうひとつの純粋さは、夏枝とのプラトニックな愛。「プラトニック」とはつまり「肉体関係のない」という意味である。


欠損と純粋さを持ち合わせた者は、いくつかの古代文明において「聖なる存在」として扱われる。「聖なる存在」は単に崇め奉られるだけではなく、人間であって人間でないものとして排他される対象でもある。殺害しても何をしても罪には問われない。生物的には生きているが、社会的な生は奪われている。そういう存在である。


日本にデモクラシーをもたらす原爆投下は、自分たちの共同体の中にいる「人間」であってはならない。しかし人形ではなく自らの意志を持って投下ボタンを押す「人間」でなくてはならない。ディープ山崎は、そのような存在としてまさに都合が良かったのだ。


山崎は受動的な運命ではなく、誇りを持って能動的に選んだ結果としての終末を受け入れる。しかし、「聖なる排他的存在」である彼は、犠牲者にもなれない。「犠牲」の本来の意味に基づいていえば、神に捧げる生け贄であるが、それにすらなれなかったのがディープ山崎の最大の悲劇だと思う。ここでいう神とはすなわち、デモクラシーの到来した未来のことである。その名の下に死んで行く「軍神」たちを見送った山崎は、数日後に投下ボタンを押し、その変わり果てた広島を眺める。神風特攻隊が映画や小説で語りやすいのは、その突撃の瞬間に死ぬからだ。山崎は原爆投下からしばらくの後に死ぬのだろうが、殺されるのでもなく自刃する。被害者になることすら許されなかったディープ山崎。では、加害者はどこにいるのだろう?それがこの『広島に原爆を落とす日』の最大のテーマなのではないかと思っている。


  • 『広島に原爆を落とす日』という「せめて」の演劇

この『広島』という作品には、「せめて」という台詞が頻繁に出てくる。「せめて愛しいあなたと引き換えに」「せめて愛する人のためという大義名分でもなければ」。「せめて」という副詞は、その語の前に “自分ではどうしようもない状況” が置かれ、その語の後に “自分の意志で望み、実行できる、ささやかな行動” が置かれて使われる。


ディープ山崎の “自分ではどうしようもない状況” というのは、まずロシアの混血であることで純日本人軍人としては扱われなかったこと。「白系」ロシアの、とディープ山崎が「白系」を強調するのは、それは政治的に「赤(=共産主義)」ではないという意味であるが、当時の日本人にとっては満州事件などを経て「ソ連=敵」だという認識がまず根底にある。つまり思想的には反ソ連である山崎の父か母は日本に亡命して安全に暮らしたいと考えているが、純血者が多数を占める日本、とりわけ日本軍内において、ロシアの血を引くディープ山崎は、その出自によって思想面と人種面の二重に偏見を受けたことが容易に想像できる。


もうひとつの “状況” は、その偏見に打ち勝つために、そして心から日本を愛していることを証明するために、優秀でありつづけてきたことによる孤独である。ディープ山崎は哲学と兵学の両方に通じていた。カントと西田幾多郎に共通するのは「善」の哲学である。設定上おそらく本当に日本を勝利に導くことができる頭脳を持っていたのだろう山崎は、同時に、戦勝国となったあかつきには日本が世界平和のためにいかにふるまうべきかについての青写真を持っていた。しかし、山崎自身も「日本が勝つことで本当にこの国にデモクラシーが根付くのだろうか」と内心不安に思っていたように、重宗教授も立場は違えど同じ見解を持っており、日本を敗戦に導くためにはディープ山崎を参謀本部から引き離し、南海の孤島に追いやらねばならなかった。けれど、使いどころはある人間であるから、前線に立たせるわけにはいかない。このようにして、山崎が偏見によって差別されないために行ってきた努力は、かえって山崎から日本の未来を築く権利を奪った。


「原爆投下は歴史の必然でありましょうな!」「何卒、文書でのご命令を」と山崎は懇請する。それは、これまで大きな圧力によって人生を歪められてきた人間にとって、自分のあらゆる行いは「求められたもの」であると考えることによって自分を守り、孤独も恨みも押し殺して自分を納得させてきたゆえの最後の懇願である。夏枝にも「ですから、あなたのほうから私に飛び込んでくる!という方向でレールを曲げてくだされば!」と強情を張り、夏枝に求められたという形式を守ろうとする山崎。日本に帰りましょうよ、と部下たちに言われたときも、「自分の意志で帰るんじゃありませんよ。あなたがたがそうやってぺこぺこするからしかたなく帰るんです」という山崎。自分の意志ではない、ということが山崎にとって自分が愛されている保証であり、否応なく歴史の必然の中に巻き込まれることが自分の存在価値を図る基準だった。


しかし、「あなたの意志ですわ、山崎少佐」と上官である夏枝は言う。そこで山崎は初めて自分の意志で何かを行うことを決心する。その何かとは、この原爆投下により戦後日本にデモクラシーが来るのかを歴史に問いかけること。その代わりに「せめて」、と、自分の愛する人と愛する広島市を差し出す。山崎にとってはその二つが差し出せるすべてのものだったのだ。


そもそもが、原爆投下とひとりの女への愛情は、二者択一として成り立っていない。「原爆を投下するのか、夏枝を失うのか、どちらかを選べ」という話ではない。そこの不整合性はどんな観客だってわかる。しかしそこで無理に落としどころを観客が探すのではなく、その齟齬をそのまま受け止めて、それがどこから来ているのかを考えるべきなんじゃないかと思う。そしてわたしにはそれが、「せめて」によるレトリックに表れているのではないかと思う。


「愛はレール。決して交わらない二本のレール」という例え話がある。あれは、夏枝への愛と日本への愛のメタファーなのではないだろうかと思っている。「たかが戦争くらいで、たかが第二次世界大戦くらいで、女に愛を打ち明けるほど私ははしたなくないのです!」と頑なに言い張っている限り、その二つの愛は永遠に交わらない。しかし、ディープ山崎は最後にその二本のレールを自分の意志でねじ曲げ、原爆投下という地点において交差させた。普通の人間ならその投下ボタンは押せない。ディープ山崎を普通でなくさせたのは、人種差別による偏見に対する恨みと、国家の政治的な思惑に対する純粋な怒りと理解、そしてささやかな夏枝の言葉、「あなたしかいないと思ったんですもの。私のあなたしか」という私的な、しかし壮大な独占欲だったと言える。


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最後に戸塚くんのことを。「この舞台は成功、いや大成功させなきゃいけないんです」「誰が見ても “あの作品は成功した” と思わせなければいけないなと。今までにない、そういう責任感が今の僕にはあります」*1と言っていた戸塚くん。その重責が戸塚くんにあの崇高な輝きをもたらしているんだろう。テクニックや理論で演技を出来ない人が、ほぼ精神力だけでこの巨大で恐ろしい作品に立ち向かっていく様子は、さながら怪物殺しに挑む英雄のようである。しかしそこで戦う戸塚くんは傷だらけには見えない。とても光輝いていて、ああ、この人はこの作品に、そしてつかこうへいや錦織さんに守られているんだな、と思った。『広島に原爆を落とす日』の「落とす」が他動詞であるように、舞台上の戸塚くんは命を「燃やしている」のであって、削られたり侵食されたりまったくしていない。この生命力にあふれたディープ山崎はまもなくこの世から消えてしまう。そのことを淋しく思うと同時に、彼の役者人生における決定的な転換期となるであろう瞬間に立ち会えたことに、今は心から感謝している。





*1:STAGE SQUARE vol.13