熱海殺人事件3

人間の記憶の仕組み、ずっと中にしまっておくと薄れていって、外に出すと強化されるというのが謎で仕方がない。こぼれないように密閉してるほうが少しずつ薄れていくってなんでだよ!疑問があさってな方向へ向いています。


そういうわけで、熱海の話を。書いたら熱海が本当に終わってしまうような気がして延ばし延ばしにしてたのだけれど。書かないと失われてしまう自分の鳥頭をうらみつつ。


                         *


今回の熱海では、観るたびに違うものが見えて毎回初見のように興奮してたんだけど、特筆すべきは楽前日の27日夜公演のこと。突然わたしの中でコペルニクス的転回が起きた。それまで何度も観て来た通常公演なのに、その瞬間いきなり雷に打たれたように(イナビ的な)この熱海殺人事件の解釈が正反対の方向に覆されて目を見開いた。たぶんこれがわたしのファイナルアンサー。


いきなり結論から書くと、錦織演出の熱海では「金太郎くんはアイちゃんを殺していないのでは!?」っていう。


最初は逆だと思ってたの。小説ではその辺あいまいにされているけど、錦織演出では、金太郎くんが殺したこと前提なんだな、って初日観たとき理解した。そこは所与の事実として、その殺人の動機以外の部分を掘り下げようとしているんだなあと。
でも、もしかして真逆では!?と思ったのは、金太郎くんの供述でいくつも矛盾があるところがずっと気になっていたから。


たとえば、ユニマットのお兄さんが持って来た現場写真に金太郎くんは尋常じゃなくびっくりして、その後「…いや」って何かを隠すそぶりをしたこと。それから、「バスを降りて歩きました…」からの金太郎くんの独白のなかで、「彼女が身体を丸くして風を遮ってくれたことが、どうしても思い出せないのです」の部分、金太郎くんはどうして思い出せなかったのか。「そしてお決まりの、お盆になったら田舎に帰ることを、彼女は楽しく話してくれました」と、その後の回想シーンの「なんねアイちゃん、朝からイライラして」の齟齬。「朝、新宿で待ち合わせて踊り子号で行きました」「おいは一晩中眠れんかったとばい!」と「(午前11時!) 山口アイ子を新宿で待ち伏せし、一緒に喫茶店に入りました!」の時系列の混乱。


これらの矛盾を説明できる答えとしては、ひとつしかなかった。金太郎くんは本当のことを言ってない。つまり、アイちゃんを殺したこと自体が疑わしい。


ここからはわたしの推測だけど。
アイちゃんと熱海に行った回想シーンは、途中まで本当なんだと思う。でもアイちゃんは、自分以外の誰かに殺された。金太郎くんにとっては、世界で一番彼女を愛してた自分以外にアイちゃんを殺した人間がいることは、何よりも認めがたい事実だった。だから、あの回想シーンのラストは金太郎くんのなかで事実と嘘が混濁してる状態での「演技」なのではないかと。アイちゃんから「大関になった一番覚えちょるよ」っていうたった一言を最後まで聞けず、その絶望によって自分が彼女を殺すという究極の愛の結末すら打ち砕かれた。その二重の絶望が、金太郎くんの中で「殺すほど愛した自分」の虚構を作りあげたのでは。


ユニマットのお兄さんが持って来た写真にあんなに動揺したのは、アイちゃんが殺されている現場写真をそのとき初めて見たから。バスを降りて二人で楽しく話した記憶は、金太郎くんが捏造した二人の幸せな姿。午前11時!13時!っていうのは、伝兵衛のエゴイスティックなやり方にいつのまにか引きずられて、「一晩中うきうきして眠れなかった金ちゃん」ではなく、「衝動に身を任せ熱海に逃避した恋人たち、そして愛に身を焦がした故に悲しい末路を迎えた殺人犯大山金太郎」のイメージが、現実を凌駕したから。


錦織さんの意図がどうだったのかは、おそらく聞けないので、どういう解釈が正しいとか正しくないとかはもう意味がないと思うんだけど。
「金太郎くんは自分で自分の記憶を捏造したのでは」っていうことを考えていて、そもそもこの熱海殺人事件っていうのは、そういう話だったじゃん、って思い至った。つまり、伝兵衛と水野さんと熊田さんが、それぞれ自分の思い描くドラマティックな殺人劇を金太郎くんに押し付けるっていう構造。「海といえばこう!」「山口アイ子は海が見たかったんじゃない、海というイメージにすがりたかったんだなあ(語尾あいまい)」熊田さんが劇中ではっきり言ってくれているじゃんっていう。


というのも、この舞台をどう観るかというときに、観た人それぞれが各々自分なりのストーリーを補完していたような気がするから。美醜の問題、貧富の問題、都市と地方、アイデンティティ、どのテーマに引っ張られるかはものすごく個人的なコンプレックスに由来している。それはわたしも同じで、だからわたしは金太郎くんの事件における愛の問題に、普遍性とか自分の美学を押し付けようとした。今ならわかる、わたしはその問題にずっと固執しているんだ。そしてその記憶自体が、上京してから5年間ずっとアイちゃんのことを想ってた金太郎くんと同じく、田んぼのアヴァンチュールとかあぜ道のラブアフェーアとか、小さなエピソードを壮大な愛の記憶として塗り固めたものなのだと。


初日観終わったときの自分の感想をさかのぼった。「デップくんやべえ」「つかこうへいの他の作品が観たい」「わたしのミューズに会いたくなった」って書いてあって、一番最後のがわりとわたしの熱海の中枢に作用してた気がする。


最初から最後まで、わたしは熱海に関してネガティブな感情が沸かなかったんだよねえ。それは金太郎くんがアイちゃんを思う気持ちがちょっとわかるからだと思う。整形とか売春とかそういう醜い事実を含めて「愛してる」って言えてしまう金太郎くん。本当に引き受けられるかは別にして。そう無闇に自信もって言い切れる理由は、「大関になったあの一番」っていうささやかな思い出にあるわけだけれど、アイちゃん当時12、3歳(「17、8の娘」の5年前だから)だし責任がとりようもないよね。だから金太郎くんが愛してたアイちゃんというのは、もう虚構のアイちゃんなんだろう。自分の中にいる理想の女神のために、人生捧げると決めた金太郎くんは、究極のエピソード担であって、生死をかけた虚実入り混じる芝居をあの取調室で完成させたんだと思うんだ。


                         *


そして虚が実に侵入するということでいえば、とつかくんには虚の世界があるというのが非常に救いになっているとわたしはずっと思ってて。
とつかくんが異常なくらい映画や小説を摂取する(したがる)のは、ステージっていうフィクションの世界から降りると、毎日毎晩とつかしょうたという自意識に否応なく向き合わなければいけないことを怖がってるからだと思ってる。だから、わずかな時間の隙間さえ別のフィクションで埋めるのだと。ふつうはしんどくてそんなことを続けていられないと思うんだけど、とつかくんはたぶんちょっとその辺が麻痺してる。そして今回の熱海では、ジャニ舞台よりもさらにとつかしょうたから離れて、完全にプレイヤーとして錦織さんやつかこうへい関係者の演出を受け、膨大な量の台詞を飲み込んでは吐き出し、この全然リアリティのない虚構の世界に必死で格闘して。そうしてる間、とつかくんは自意識を遮断されてたような感じだったんじゃないかと想像する。三郎のときみたいに「おれは金太郎になるんだ!」って。見てる限り心身共にぎりぎりの状態だったと思うけど、われわれ人間の直視したくないところを抉るようなあれくらいの過激さが、とつかくんの頑なさを破るのには必要なのかもしれない。あの子は破滅型の思考ではあるけれど、ステージの外ではみんなに好かれる優しい子だし、コンサートで暴れるときでもだいぶ選んで暴れてる。そういう常識的な理性と内部の暴力性がずっとかみあってないのがとつかくんで、それはすごくおもしろいところだとわたしは思ってるんだけど、とつかくんから考えることを取り上げて、虚構の物語に没入させ舞台上で爆発させることが、とつかくんにとっては解放になるんじゃないかって。だから、千秋楽の挨拶で「幸せでした」って笑っていえるとつかくんは、熱海前よりもずっと自由になってるように見えた。自分じゃない人間になって死んだり殺したり叫んだりすることがとつかくんの何らかの治癒になっていてるとしたら、きみはもうずっと舞台に立ってなよ…!って思ったよ。


役者としてこうなってほしいとか、グループとしてこの夢を叶えてほしいとか、そういう希望がないとは言わないけど、ほんとに最終的にはとつかくんが生きててくれて、こうやって未知の世界と全力で対峙してるのを見れたら、それがわたしの願いの全てだなあと思う。なんかわたしはやっぱり、とつかくんのここが好きとかそういうことじゃないんだな。この世界に唯一無二で、代わりのきかない子だから。今ならとつかくんがどんな放蕩と怠惰に身をやつしても、極悪非道な悪行三昧をはたらいても、変わらずずっと見てると思うよ。過激でごめんね!