熱海殺人事件 2


殺しに至るまでがぼんやりとして曖昧で、
警察での尋問のシーンはくっきりとしている。
それは、劇場で観ているあいだのことを思い出すと輪郭がぼやけるけど、
その後の日常が細密になったような感覚と似てる。



わたしにとってはとつかくんのことを書くのが一番難しいので、それ以外のことを書きたいと思う。



熱海殺人事件のあらすじはよく「刑事たちがそれぞれの美学を犯人に押しつけ、三流容疑者を一流の殺人犯に仕立てあげる…」とかって書かれるけど、錦織戸塚の熱海(「錦織さんの熱海」ではないのは、あの金太郎くんは多分にとつかくんだと思うから)のテーマは、「愛とは何か」だとわたしは思った。この特殊な事例から見いだされる普遍的な「愛」とは何か、という。名作と呼ばれる古典には、理性的な判断を経ない人間の普遍性が絶対に含まれている。人間とは良くも悪くもこういうものだっていう。そして錦織さんが今回比重を置いたのは、一流の殺人犯に仕立て上げられるまでの戯曲性よりも、金太郎とアイちゃん、伝兵衛と水野くん、熊田さんと内縁の妻、それぞれの愛のありようについてなのではないかと。


カミュの『異邦人』*1に、「健康なひとは誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ」という一文がある。たぶん世の中の人はこのテーゼを自然に受け入れられる人と受け入れられない人にきっぱり分かれるんじゃないかと思うけど、もしこれが本当なら、そこで期待されている死はなんだろう。この作品において、とつかくんの演じた金太郎くんはアイちゃんの死をずっと期待していたのだろうか。それともあれは衝動的な行動だったのだろうか。


わたしが思うに、この世で一番生きてほしい人こそ、一番死んでほしい人なんだと思う。なぜなら、それほどまで自分を傷つけられる人間は世界にひとりしかいないから。相撲で大関になった思い出だけを頼りに東京で生きてきた金太郎くんにとって、同郷のアイちゃんに「海が見たい」と弱さを打ち明けられたそのときが、人生最高の瞬間だったと思う。彼女に売春とか整形とか、後ろめたさがあればあるほど、傲慢にも自分が救えると思った金太郎くん。反対に自分自身の田舎臭さや無神経さにも自覚はあって、それを取り繕うことも本当はできるのに、あえてアイちゃんの前では原宿でコーヒーを値切ったり、大きな声で長崎弁でしゃべったりして「この自分の不格好さを知ってて好きでいてくれるアイちゃん」のイメージを自分の中で作り上げ、自己暗示にかけた。それは東京で貧しい職工暮らしをしながら精神を保って生きていくための金太郎くんなりの術だったのかもしれない。だからこそ、金太郎くんは彼女に執着した。大関になった一番なんてダサい思い出を同じように美しい記憶として抱いているはずのアイちゃんは、金太郎くんにとって聖なる存在であり、唯一無二の女の子だった。そうなると器量なんて関係なくなる。その位置を占められる人間はこの世に二人といないから、一分の一でしかない。


けれど愛における所有欲は、相手から与えられるもの(愛情)を所有したいという欲求であって、相手そのものを所有しても心は満たせなかったりする。アイちゃんと結婚して、田舎に帰って、整形した顔を元に戻して、アイちゃんのすべてを引き受けようとした金太郎くんの愛は真実で深淵だけれど、それはアイちゃんの東京での頑張りを完全に否定するものだった。まあわからないよね。金太郎くんは美青年に生まれてしまった子だから。アイちゃんが、好きな人のためでもなく、身体を売って家族を養うために美しくならなきゃいけなかったその孤独を、残酷な金太郎くんは最後まで理解できなかった。その上、相撲で大関になったときのあの美しい思い出を「覚えちょらん」って完全に打ち砕いたその言葉は、金太郎くんにとって自分とアイちゃんの仲を引き裂く憎悪の対象となり、その言葉を発した人間は、その瞬間死に値する者になった。だから、あの海辺のシーンで愛情が徐々に憎しみに変わったというとちょっと違って、極限に達した愛情は本質的に殺したいほどの憎しみを伴うものである、ということだと思う。そうして、自分とアイちゃんの間を裂こうとした人間(それもまたアイちゃん)の存在は消滅し、アイちゃんは今度こそ金太郎くんのものになった*2。だから、殺害後、警察署内の金太郎くんは「喫茶店なんです」とかごく普通に応対してる。その発言もきょとんとした幼い表情も嘘じゃない。アイちゃんを殺したいと思った金太郎くんと、アイちゃんはブスじゃない!ってかばう金太郎くんは、彼の中では矛盾しない。だからわたしには金太郎くんは狂気じゃないように見えたんだ。


あれが狂気でなく正気だとするなら、金太郎くんはもし生まれ変わってもまたアイちゃんに会いたいと思うだろうし、またアイちゃんを殺したいと思うだろう。殺すために出会いたいと思うのが仇敵なら、出会ってしまったら何度でも相手の生死を所有したいと思うのが愛だと思う。だから、金太郎くんは、自分が死刑になれば、アイちゃんが東京でしていた諸々のことが田舎の人たちに知られず、しかも彼女も自分の死に加担させることで、「殺し殺されるほど愛し合っていた僕たち」という二人の世界を終結させることが出来る。金太郎くんにとっては、もう物語は終わっていて、この舞台で尋問室にいるほとんどのシーンは、彼にとってはエピローグなのではないかな。


人を好きになるとさ!この僕を汚して*3とか、泣かないで笑っておくれよ*4とか、とつかくんは寝てくださいとか、要求が多くなるんだよ!金太郎くんの最後の要求は「オイとアイちゃんの愛を引き裂く人間には死んでほしい」だったんだと思う。そこに理性が入る余地はない。繰り返すけど、「そういうもの」なんだ。


この舞台は結局、恋人を殺さなければならなかったひとりの青年についての抒情詩ではなくて、4人の人間(あるいはアイちゃんも含めて5人の人間)がいて、そのようなことが起こったというだけの叙事詩なんだと思う。叙事詩といえばギリシャオデュッセイアとかがそうで、ロマン派的な、個人の内面を描くような叙情文学はごく近代的なもの。だけどわたしたちはそういう見方に慣れすぎていてて、登場人物の情況から結末を理解するとなんとなく腑に落ちたような気分になる。平成の小説は一人称の主人公が圧倒的に多くなっているらしいんだけど、たぶんそれも同じ理由から来る傾向。でもこの舞台ではそうではないところに見どころがあるのではないかと思うんだ。それはどこかというと、例えば金太郎くんが恋人を殺す直前まで「パイレーツに二言はなか☆」とか、とっぽいこと言ってるところとか、大音量の音楽(クラシックだったかな)のなかで「アイちゃあああああん!!!」って絶叫してる金太郎くんとか、理屈じゃないんだけどなんかすごいめちゃくちゃだな!っていうその衝撃そのものが、この熱海殺人事件という舞台のかけがえのない価値なのかなあと思ってる。めちゃくちゃってカオスという意味ではなく、喜怒哀楽が突如入り混じったり、穏やかさと暴力、思いやりと独善が同時に表出したりしていて、演者も観客もこの金太郎くんをどうやって受け止めたらいいのか判らない、感情移入がまったくできない、だけどなんかすごい、という意味で。




こんなに長々と書いているけど、初日の一回しか見ていないし、劇場ではこんなこと考えているはずもなく、とにかくずっと緊張していたので、また次見たら、こないだ自分が書いてること全然ちがうじゃん!ってなるかもしれないです。でも、初日の夜に考えていたことを追究したら、こうなった。という記録として残すことにします。




 

*1:もう聞き飽きたかもしれないけど、熱海殺人事件の創作のベースにはこの小説があるので、みんな読んだほうがいいよ!

*2:この辺りで、錦織熱海における強姦の扱いが気になったんだけど、まあだいぶエグい話にしかならないので自主規制

*3:バニラ

*4:恋ボ