熱海殺人事件

のことで頭がいっぱいだ。しかし観劇直後はうまく言葉にならなくて、時間が経つとだんだん記憶が曖昧になってきて、何かを書いて残したいとは思いつつも、真っ白なテキストエディットを前に書けることなんて何もなくて絶望的な気持ちになった、という話をこれから書きます。


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今、芸術哲学(あえて美学とは言わない)の書物の読書会をしながら、哲学がわたしの閉塞的な思考を解放してくれる実感がにたびたび震えている。学部時代にも哲学の授業を受けていたはずだけど、同じ書物、同じ思想家についてであっても、全然違うようにわたしの前に立ち現れてくる。それは新しい世界への扉なんだけど、扉を開けたらいきなり天も地もない空中に放り出されたような感じで、そういうときにわたしは自分の言葉で言い表すことが全然できない。既存の言葉、出来合いの概念では刃が立たないようなものに向かい合うとき、どんなにいびつな形になっても、口をつぐむという選択だけはしないでおこうとずっと前に決めた。だけど今それは相当にしんどいことで、言葉の技術の問題ではなくて、それ以前のわたしの思考能力の低さの問題なのだと思い知らされて、身を切られるように痛い。なぜなら、明晰な思考ができないというのはわたしの本業(院生業)において致命的だから。認めたくないけど認めざるを得ない、その上でわたしはやっていかなくてはならない。この先まだまだここにいるのなら。


とつかくんの一万字のタイミングで、信頼する友人が言っていたことにわりと大きなショックを受けていて。「何かについて語るときに、何でも自分のほうに引き寄せようとするのは好きじゃない。底の浅さが透けて見えるから」というような内容だったんだけど、あーそれわたしだと思った。三日くらい地の底に落ちてた。自覚はあったし、何より今の自分にとって一番大事なものについて語るときの本質的な誤りについて指摘されたから。そのときはリアルに、ぐさり、って音が聞こえた。どうでもいいことについてどうでもいい人に言われるのは全然気にならないけど、あの一万字は大切な大切なテキストだったし。大阪駅構内のカフェの隅っこで泣いたことは本当なのに、その感極まった思いとわたしの言葉が確かに一致していなかった。嘘だとか取り繕ったという意味で後悔したのではなくて、それを理解するのに、元々自分のなかにある概念や比較対象を借りて来ないと理解できなかった、その程度の関わり方しかしていなかった、ということを思い知らされたのがショックだった。


そして熱海についても結局なんにもうまく考えられない。舞台という生々しいものを言葉で固定化することがもう違うのかもしれないけれど、破片でも残しておかないと、こんなに不定形なものはすぐに蒸散して無くなってしまう。だから書いておきたい。でも書いてみて、後からあれは不適切な表現だったって思ってしょっちゅう滅入る。決して口をつぐまないこと、自分で決めたその原則すら揺らぎそうになる。あの初日に全身で体感した衝撃はなんだったんだろうって、ちゃんと考えたいのに、今ちょっと自信をなくしている。芸術を言葉で捉えるというのは、いつでも絶望的な無力さと壮大な無限の可能性の間にある。