気持ちの整理

腹を据えて、戸塚さんのことを書く。


そもそものきっかけが、「ジュニアに堺雅人に似ている子がいる」だった。笑顔の奇行子がいると。そのころパリだったのでちょっと検索したら、エピソードだけでツボにはまったのが第一象限。その直後にデビューが決まり、友人が海超えてデビューDVDを送ってくれて、初めて普通に話してる戸塚さんを見たのが第二象限。第三象限は、じゃにうぇぶで戸塚さんの超絶長いテキストを読んだとき。そして2月のえび座舞台DVDで転げ落ちるみたいに加速した。これが第四象限。もう戻れないところまで来たのは自覚してる。


いや……まだ自分の中では納得できてないんだけど。
戸塚さんねえ、ほんっとに堺さんに似てるの。表情もそうなんだけど、ふとしたときの仕草とか、言葉の選び方とか、本人は至って真面目なんだけどなんか破天荒なところとか。堺雅人のことをこんなに好きなわたしが言うんだから相当だと思う。しかも戸塚さんは、わたしの知らない堺さんの二十代を体現してるようなところがあるんだよ。自意識にがんじがらめになりながら、それを端正な顔の下に隠して穏やかに笑ってるような。



ねーーーーーーーもうだめでしょ、これ。
「似てるから好き」って、理由が最悪。



わたしにとって、堺雅人がどれだけ大事かということだ。わたしの全ての尊敬と憧憬の念を一身に投影した対象、一生超えられない偉大な存在。父親とか先生に近い。けれど堺さんにも若さ故に不安定だった頃があって、その時期に必死で自分と戦って今があることも知ってる。毎回公演のために何冊も消費して思いを書き綴ったノートたちを、こんなちまちましたことしてるから自分はだめなんだーってある日一気に全部捨ててしまった堺さん。笑いながら話してたけど、それは結構重要な契機だったんじゃないかと思ってる。それがちょうど、戸塚さんが坊主にした姿と重なる。だから、戸塚さんを見てると、あの子が25歳から30歳になるまでに立ち会えるなら、見ておかなきゃいけない気がするんだ。おそらくあと少ししたら、戸塚さんは出来上がってしまう。今の青春スーツもこもこで不安定で、どこか人格が破綻したまま生きていて、でもステージに立つと揺らぎのない真っ直ぐな目をする戸塚祥太は、きっと今しか見れない。


もし戸塚さんが中学で事務所に入ってなかったら、早稲田とか行って演劇に目覚めてのめりこんでいく様が容易に想像できる。あの子そういう出家願望的なのがある気がするんだ。捨てるものがない人間は強いよね。だから怖い。戸塚さんはわたしにとってはハチミツで出来た沼みたいだ。甘くて優しい味だけど、はまったら抜けられない。いや、はまらない!って言ってるのに引きずり込まれる。まっとうに好きになったのなら、自分から降りてったかもしれないけど。うーん。あの子はわたしを悩ませる天才だ。