小商い


春になったらヴァンセンヌの森に行こうと思ってて、今日初めて行った。森っていうよりは広大な林みたいな。ブーローニュの森みたいに鬱蒼とはしてなくて明るい。風が冷たかったんだけど天気がよくて、ヴァンセンヌ城から湖までずーっと歩いた。歩き瞑想っていうのかな、足だけは歩いてて頭はからっぽになる瞬間がある。ひとりでただ歩くのがすごく気持ちいい。


湖のそばで本を読んだ。快晴で白いページの反射がまぶしくて、小学校のときの写生を思い出した。


小商いのすすめ 「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ

小商いのすすめ 「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ


恵文社の店長さんおすすめだったのと、自分がこれからどうやってお金を稼ごうか考えていたところだったので、読んでみた。経済の本なのにきれいな装幀だなーと思ってたら、クラフト・エヴィング商會だった。わたしの装幀の先生が嫌ってるクラフト・エヴィング商會 笑。 ところでタイトルは『小商いのすすめ』だけど、執筆中に震災と原発事故が起きて、当初予定していたような「縮小する経済状況のなかで生き残っていくための経営のひとつのあり方」といったテーマから大きく逸脱して、もっと広い視座で「日本は経済史的に今どの位置にいるのか、または経済論的にあるいは人間の幸福というものを考えたときに、今までとこれからと何が違っているのか」ということを考えざるをえなくなった、というストーリーの長編エッセイ。


1983年、ディズニーランドと同い年のわたしには、資本主義経済がもう終わってることなんて中学生くらいのころからあたりまえの感覚だった。でもいつまで経っても新しい時代が来ない。自分が就職する時期になっても、謎な新卒一括採用が当然で、大企業に入れないと裕福になれない、みたいな空気が蔓延してた。そのうえ自分がいつのまにか大人になったことで、日本経済の生産側と消費側、どちらにも加担することになった。前にも書いたけど、わたしが広告の仕事をしていたときにしんどかったのは、見えない消費者の欲望を喚起して物を売る仕事だったから。企業イメージとか、競合他社との差異化とか、「上質のライフスタイル」とか、「もっと便利に!もっと快適に!」とかそういうことばっかり考えてた。そして自分自身は少ないお給料で働いて、購入しているものは海外の安い労働力によってアンフェアに生産されたものだったりしてた。こちらへ来て、目の前にいるお客さん(日本語の生徒たち)から対価をいただくようになって、野菜はマルシェで、パンはパン屋さんで購入、大きな買い物はお金がなければ諦める。そういう生活をするようになってから、不思議と心身安定してる気がする。それがまさしく、この本にある「ヒューマンスケールを取り戻す」ってことなんだと思う。不特定多数に訴求して、昔は一家に1台だったものが一人に1台になり、それで頭打ちになるようだったら、今度は消費者の購買欲をもっと細分化して一人複数台を狙う。今まではそれでもよかったけど、そんなのがいつまでも続くわけがない。それがわかってる人とわかってない人が、日本で広告業やってたときの感覚だと、今半分半分くらいだと思う。それはたぶん、身も蓋もない言い方だけど、世代間ギャップ。60年代の高度成長期を経験した世代とわたしたちでは、経済史観が全然違う。でももう、肥大する欲望をこれ以上煽ること自体、広告業という前に現代ビジネスに関わる人間の姿勢として、過去のものにしなきゃいけないんじゃないかな。「これを買えば幸せになれますよ」って、少なくともわたしは、もしまた広告の仕事に戻ったとしてももう言えない。そのかわり、お客さんが大切なお金をわたしに渡してもいいと思えるものを提供したいと思う。それがわたしの今の教育という仕事に満足してる点であるし、次にどんな仕事をするにしても、その提供する価値に責任を負える、このサイズ感を大事にしたいと思ってる。そう思うと、今みたいに先行きの見通しの悪い時代に生きてること自体がもうすでに、幸せなことな気がするんだ。自分の裁量でサイズダウンしていいんだって思えるから。


夕方、ヴァンセンヌの森から地下鉄に乗って、グランパレのパリ・アートフェアへ。最終日なので混んでたけど、おもしろかった。何よりそこにいる人たちが。東京のデザイン・フェスタみたいな感じだけど、年齢層が結構高くて、一部の人は実際に現代美術を購入するつもりで来てるのね。そして画商が作品の紹介をする。画商って良い仕事だよなあ。今は美術館の仕事より画商の仕事のほうが興味ある。