伊藤計劃とアラン・ロブ=グリエ

静養中にベッドで読んでた本の話。


虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)


前に一度読んで、3ページ目くらいで挫折した。理由は覚えてない。文体が好みじゃなかったんだと思う。でもこの貴重な休みに一気に全部読んだら、文体がどうとかいう前に、これがフィクションであることの意味とその命題の重さに、鈍器で後頭部を殴られたような衝撃があった。


主人公はアメリカ軍で要人の暗殺ミッションを請け負う特殊部隊の軍人。彼は、世界中で意図的に大量虐殺を引き起こしている男を追っている。舞台はイラクプラハ、インド、アフリカと次々に移る。その合間に差し込まれる、宅配ピザバドワイザーの日常と、人間の実存についての問答、哲学とテクノロジーについての思索。


伊藤計劃は2009年に34歳で亡くなった。当時はWebディレクターとして会社勤めをする一方で、全身に転移する癌と闘いながら、この話を10日で書き上げたという。なんというか、すごいな…としかいいようがない。処女作に内包されるエネルギーってどの作家にもあるけど、この人の場合はそれがマグマみたいに熱くて、それが内省的な方向にも深く沈み込むし、現代社会情勢っていう、言葉にするとニュースの向こう側みたいだけどそうじゃないものに対しても容赦なく切り込む。生々しすぎてみんなが考えないようにしてる根源的な我々の罪についてぐりぐり抉りだして、SFフィクションとして提示したのがこの人の才能だったんだと思う。わたしみたいに、こうして暖かい部屋でPCに向かってひとりごとを垂れ流してるこの豊かさは、何によって保たれているのか、それをトレースする勇気はあるのか、と終始問われていたような気分。それでもわたしは微熱あるまま読んでたので、それこそ心理的な痛覚をマスキングされてるような状態だった。これ、頭冴えてるときに読んでたら、考えすぎて日常生活送れなくなってたかもしれない。


テロ、虐殺、内戦、貧困…。こういうの苦手だから考えたくない、というのは言いたくない。だけど、その場限りの考えで吟味されてない言葉で書くのであれば、覚悟が足りるまで書かないほうがいい。しかし伊藤計劃にはその時間がなかった。


わたしの好きな台詞。

「エリック・ホッファは港湾労働者でしたよ。あなたの好きなフランツ・カフカは小役人だった。
 職業に貴賤なし、と言いますが、同時に思索は職業を選ばないのです」


 *


迷路のなかで (講談社文芸文庫)

迷路のなかで (講談社文芸文庫)


アラン・ロブ=グリエを読んだのは、「君の文章はとてもヌーヴォー・ロマン的なので、ロブ=グリエとか読んでみるといいですよ」とある先生に勧められたからだったんだけど、いやー…目眩がした。自分が体調悪いから文章読めなくなってるのかと思ったら、そうじゃなかった。現実と幻覚がぐちゃぐちゃになってたり、同じ風景や同じ文章が何度も出てきたり、神経質なまでに幾何学的な描写だったり。途中で頭痛くなってきたけど、最後まで読まないと何にも言えないと思って意地で読み終えた。その結果、裏表紙の解説にあった「意表をつく結末が控えている」って言葉を信じなきゃよかった、って思った。そもそも主人公の兵士が終始疲労困憊で熱がある状態で、雪の降る街を彷徨い、最終的に銃撃される、という話*1 なので、自分にシンクロしてしんどかったです。


実験的な作品なのでおもしろくないわけじゃないんだけど…まあそれが狙いなんだよね。たとえば遊園地のビックリハウスから出られなくなって三半規管やられた状態になるように、言葉だけでその目眩を作れるか、という。それでいえば成功なんだけど、もう一度読みたいかっていったら読みたくないね。この手法は1950年代に発展した手法だったそうだけど、その後定着しなかったのがよくわかる。


そうそう、知らなかったんだけど、アラン・ロブ=グリエも数学学んでた人なのね。ということは、これ全部設計図ありきで書いてるのかな。だとしたら、むしろそっちで見せてほしい。あ、でも、物語中で出てくる「ラインフェルスの敗戦」の絵は、なくても平気。こういうのはきっと、絵を1枚みるより、その絵から空想された物語のほうがおもしろいはずだから。


おかげで、今書いてる小説に手を入れる気になりました。

*1:虐殺器官といいこれといい、穏やかじゃない本ばかりですが、わたしの本棚そんなのばっかりです