主体と客体

こないだのは、なんてタイトルつけていいのかわかんなくてそのまんまになってます。見返したらチラ裏もいいところですね。お目汚し失礼しました。
あのまま放置するのもなんなので、もうちょっと哲学的に追究します。メルロ=ポンティにからめて。


この世界における主体のありようについての問題。この世界は「私」の知覚によって初めて存在する、という考え方もあるけど、メルロ=ポンティによると、「《私》は確かに主体ではあるが、同時に他者にとっては彼が主体であり、《私》は客体である」ということらしい。まあそうだよね。メルロ=ポンティは、人間は生まれてしまった以上なんとかして生きるしかないっていう立場をとっているので、他者の主体性を認めつつ、自分の主体性も否定しないというのは、曖昧だけど合理的だと思う。だからこういう恋愛の場面において、手に入る/入らないっていうことにこだわるのは、自分が客体化されているのが嫌だからなのだろうか。素敵なレストランに連れて行ってくれたり綺麗な景色を見せてくれたりするの、嬉しいけど同時に微妙な気持ちになるのは、相手が自分を女子という客体でしか見てない気がするから、わたしは心の底ではそれに反逆したいのかなーとか思ったり。


そんなことを考えていたらですね、昨日、そのフランス人の男の子がなんかの拍子に言ったんだ。「君はobjet(モノ、客体)じゃないんだから」って。「嫌なことは嫌だってちゃんと言わなきゃ。日本人の女の子は抵抗しないからobjetみたいに扱われる。それはよくない」って。


驚いたね。客体化されてる自分を受け入れてるのはわたし自身だったのかと。この話、文脈としては、“わたしは怒るのも怒られるのもすごく嫌いなので、何か不満があっても言わないし、それで別に怒りをためこんでるわけでもない” っていう話をしてるときに言われたんだけど、たぶん彼は、わたしが簡単に雰囲気に流されることとか、日本は文化的に女の子をモノ扱い(っていうとちょっと表現が強すぎるけど、「客体」とか「対象」とか言い換えても同じ意味)する傾向があること*1 *2とかをふまえて、そういうこといったんだと思う。


えーと言葉を選ぶけど、こう、女に生まれた以上、女の子は多かれ少なかれ、成長過程のどこかで自分は男の性的対象になりえるんだっていう自覚をするじゃないですか。自覚の話だよ。実際の性体験の話ではなく。たとえば電車の中で痴漢に遭うとか、誰かに性的接触を求められるとか。そのときに、客体化された自分を意識して、その欲望どおりに可愛い女の子でありたいと思う人と、特に変化せずにありのままの自分でいたい(あるいはいられる)と思う人と、逆に性的対象として見られる自分を嫌悪する人と、ざっくり3通りにわかれるんじゃないかな。そしてわたしはたぶん、「その欲望どおりに可愛い女の子でありたい」と思う人間なんだと思う。それは特定の男性相手にじゃなくて、男性一般に対して。もちろん仕事関係とか友達関係とかにまでそんなの持ち込まないよ。でも自分が自分を客体化してみて、わたしが男だったら好きになりそうな女の子になりたいという気持ちがすごいある。だからわたしは髪を伸ばして、スカートをはいて、可愛い声で話そうとする。わたしがそういう女の子が好きだから。中高大時代にあんまり女の子の友達がいなかった理由がよくわかるでしょう。


ここにパラドクスがあるんだよね。わたしは別にモテたいわけではない。可愛い女の子の外見をまといたいと思ってるだけで、中身はまた全然ちがう面倒くさい人格が入っていて、こっちは動かしようがないから難しい。というか、わたしの中の男性性が、わたしに女の子らしさを強要してる気がする。だから、コアな部分ではわたしは男性的だし気が強いし優しくないけど、見た目はおとなしそうでのんびりしてて、それこそ何しても抵抗しなさそうな人間に見えるんだろう。抵抗しないわけじゃなくて、わたしはわたしで主体性を保持したまま選んでやってるつもりだったんだけどな。望んで客体化されてるって言われればそうかもしれないし、それは女である以上構造的に仕方ないことで、男性と女性じゃなく人間同士の関係って考えたときの能動性の話でいえばまた別…ってこれはボーヴォワールそのまんまですね。わたしが語るまでもない。


恋愛というのは、本来的に主体性の奪い合い。だから「あいされるよーりーもー あいしたいまーじーでー」っていうのは、主体性の奪還を企む実存哲学の本質をついた歌なんですね(適当)。でも、やっぱり自分が先に好きになってるほうが楽しいし幸せだよなあ。片思い以上に幸せな恋愛を知らないよわたし。

*1:まあアイドル文化がその最たるものですけど

*2:だから女の子に限らない