パリ-デリー-ボンベイ展

美術館で座った瞬間寝落ちる程度には疲れてますが、それでも行ってきたよ。だって明日までなんだ…

展覧会終わる直前に行くこの癖はなんとかしたい。ポンピドゥーの図書館に行くたび、この強烈な看板横目で見てるのに(位置的には「上目」だけど)、そのうち行こうと思ってたらいつのまにか風景と化してた。


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インドの現代美術っておもしろいけど、見てるとしんどいのは何なんだろうね。こちらのコンディションの問題かもしれないけど。でもなんか、全部が過剰なんだよね。足りないということがない。モノも色も光も音も大きさも熱も感情も、何もかもが過剰で、そのエネルギーってすごいなーって他人事みたいに思っちゃう。おもしろいと思うその気持ちのほとんどは、自分と違いすぎておもしろい!なんだよなあ。純粋に知覚が喜ぶような感動、たとえば「色彩がすばらしい」とか「アイデアがすごい」とかはあんまり思わない。


今回の「パリ-デリー-ボンベイ」展は、インドとフランスの現代作家が参加して、インドの "政治" "都市環境" "宗教" "家庭" "アイデンティティ" ”職人仕事”の6つのテーマで構成されてる。強制導線じゃなくて自由に歩き回れる配置になっているんだけど、その中央に、まるでビックサイトの展示会みたいなパネルと映像のコーナーがあって、現代インドの社会問題についてフランス語と英語で書かれてた。壁はインドの国旗カラーの緑とオレンジの極彩色。入ってすぐにそれだから、ちょっとびっくりした。
もし自分が参加してて、自分の作品を日本の社会問題と併置されてたらどうだろうって考える。うーん、なんかちょっと違和感。わたしは自分の作るもの(本とか文章とか)が現代日本っていう文脈で語られるのに向いてるとは思えない。でも、インドの現代美術って、必ずインドの社会問題とセットで語られる。いやもし芸術家たちの意図がそういうことなら、彼らの意識が高いのは良いことだと思うけど、それなら芸術じゃなくて社会活動したほうがいいんじゃないかって思う派。


わたしは芸術をある種の聖域に置いておきたいのかも。日常生活では無意識のうちに制限されてる人間の想像力のリミッターを外す場所であってほしい、外しても許される場所を残してほしいと思う。芸術が社会的提言のための手段として使われてるのを見るのはあんまり好きじゃない。作品そのものよりメッセージ性のほうが大きい顔をしてるのはなんかいやだ。でも、現代美術って今の時代の反映であることを必ず求められるよね。まあそれを言ったら、100年前の作品だって当時の世相を反映してるんだろうけど。わたしが近代絵画が好きなのは、時代を共有してないおかげでぼけーっと楽しめるからかもしれない。現代美術はしんどいね。