ひとり

友人のツイートが他人事と思えなくて、一日中このこと考えてた。

どこか遠くに就職してしまいたい。誰も自分を知ってる人のいないところで働いて、ひとりで生きたい。
ひとりで生きていくのは寂しくないけど、自分がひとりで生きて行かざるを得ないような人間に育ってしまった事が無性に寂しい。普通に育てられたのに、友達にも恵まれてるのに、好きなもの山ほどあるのに、なんでだ。

(無断転載ごめん)


わたしは基本的に人と関わるのが好きじゃない。好きじゃないというか、優先順位が低いので、できることなら毎日ひとりで過ごしていたい。わたしは自分でも人当たりのいい人間だと思ってるけど、この社交性は無駄に摩擦をおこさないためのコーティングみたいなもので、なるべくいろんな人に可愛がられて好意を持たれたほうが生きていくのが楽、という経験則から自然とそうなったんだと思う。だから、逆に仲良くなってから深い話をするのが非常に不得手。


早くフランスに来たい、日本を離れたい、ってずっとずっと、ほんとに毎日願っていた。わたしを突き動かしたその原動力ってなんだろうって考えたら、それは孤独感だった気がする。淋しいという気持ちとは違って、わたしはひとりであるという感覚。誰にも頼れないから全部自分でしなければいけない、その代わりどこに住むかも誰と付き合うかもどんな仕事をするのかも、すべて誰の指図も受けない、自分はそういう環境に生きるべき人間だ、って小さい頃からそう思ってた気がする。でもわたしもごくふつうに育てられたはずなんだけど。どこにいても居心地がいいと思えなくて、結局ひとりになれるほうをいつも選んでしまう。ほんと、なんでだろう。


大学で北海道に行ったあの感覚が、わたしには大きかったのかもしれない。家族も友人も土地もすべてがリセットされる気持ちよさを知ってしまったから、同じ人たちと親密な関係を築くことができなくなったのかも。長く同じ場所にいると流れが澱んでくるようなイメージがずっと頭にあって、いつも早くここから逃げたい、今の状況をきれいさっぱり振り捨てたい、って思うんだ。


人間が嫌いなわけではない。芸術とか数学とか、抽象化された思考に触れるのはとても愉しい。その愉しさが、わたしの人生においてすべてに先立つ。直接会って話すよりも、創作物や文字列を介して意思の疎通をするほうが、無駄が削ぎ落とされてて洗練されていると思う。大学生のとき、最初にひとりでフランス旅行に来る前に、恩師に言われた言葉を今でも覚えてる。「あなたは絵画や彫刻と会話ができるから、ひとりで絶対に大丈夫だと思う」って言われたの。先生の言った言葉は正しかった。その2週間どころか、以来ずうっとそうだもの。


わたしはしっかりしていないし、短慮だし、突発的な状況に弱いし、本当はひとりで生きていく能力はない。だけど、なんていうんだろう、自分には何の能力もないのにきっと何とかなるっていう、根拠のない未来への信頼があるんだよね。見晴らしの良い場所で自分を信じて生きていくことはできないけれど、視界が悪くて先が見えなくて自分ではどうしようもない状況にしといてから、何とかなるって思うながらとりあえず動くほうが性に合っているというか。その上で、後から振り返って「あれはこういうことだったんだな」って自分の行動を確認するんだろうな。そうしたい、というよりは、どうしてもそうなってしまうんだ。


自分はつまらない人間だと思ってるけど、その都度勝手に外部におもしろいもの見つけて充足できるから、ひとりがつまらないと思ったことがない。だから、ひとりで生きていきたい、っていうのは、ある意味自分の感受性への絶対的な自信なのかも。能動的な行動力ではなく、受動的な感受性への自信。「自分のことは信用できないけど、これのことは信用できる」っていう。上記のツイートした友達も芸術学やっててアイドルヲタだからね。どちらにも同じパッションで挑める気持ち、わかるもの。


あれ、こんな結論になるはずじゃなかったんだけど…。とりあえず一旦投下。またそのうち考えるかもしれない。