解毒作用

覚書といいつつ、だらだら書いてしまうけど。今までは、フランス行くって公言してて行けなかったらかっこわるいと思ってはっきり言えなかったことがたくさんあるので。


今回の決断までにたびたびブレーキをかけたのは、堺さんでした。わたしのなかにはポケットサイズの小人の堺さんがいるのですが、その子がわたしの理性をつかさどっているので(まがお)、傲慢で自分勝手なふるまいをしようとすると「堺さんならどうするだろう」っていう魔法の言葉で自然と抑制されるというコントロールシステムにふだんからなっているのです。


一番重かったのは、今年1月に両親を説得してようやく許可をもらった直後、『恐れを知らぬ川上音二郎一座』を観たときだった。DVDのブックレットにこう書いてあって、自分のことを言われてるみたいでどきっとした。

 外国語を話したり、海外に行くということを、それだけで凄いことだとはあまり思わない。
 自分の家を住み散らかしておいて他人の家に遊びに行く、みたいな気分を感じてしまうんです。

そうだよねそうだよね、堺さんならそう考えるよね…って、判ってたけど言われたくないことを言われた感じがして、胃が痛くなった。


わたしはどうも、今生活している場所から離れる/逃げる/発つ ということにある種の解毒作用を感じているようで、長いこと同じ場所にいると流れがよどんでくるような気がして動きたくなってしまう性分なんだと思う。小学生のころから早く義務教育を卒業したかったし、故郷も早く離れたかったし、仕事をやめるときも恋人と別れるときもいつもなんともいえないさっぱり感を感じていて、自分のそういうところが本当にいやだった。今もいやだと思ってる。本来はそういう、しがらみや断ち切れない過去やぐちゃぐちゃと交錯する人々の思いこそが、我々のふつうの暮らしの愛すべきところなんだろうと思うから。


「堺さんなら」という魔法のIF(俳優修業の一節)で想像してみると、あの人なら“ここではないどこか”に夢を描いたりしないだろうと思う。今いる場所で、今そばにいる人と、今やってる仕事にひとつひとつ誠実に向き合うことで、自分の役目を果たそうとしてる。過去や未来に逃げたりしない。そういう人を長いこと見てきて、どうしてわたしはこうなるんだろうなあ。
って、それは違う人間だから仕方ないのかもしれないけど。
でも堺さん自身が、とても頑固で自我の強かった青年期から今みたいに優しくて誰からも愛される人になったことを知ってるから、自分が今の環境をリセットしたがるのは業深いことであって、堺さんのように理性的に、肥大したエゴを抑制して生きていくべきなんじゃないか、人として。…とか思ったり。





――という葛藤があるので、本当は理屈ではだめだなあってわかってるんだけど、やっぱり行きたくて行きたくて仕方なかったので行動に移してしまった、という感じ。小人の堺さん(ビジュアルは孔子っぽい装束)の信念に反して全然別の道を選んでしまうという、まったく聞き分けのない生徒でごめんなさい。だけどそれでも旅立たずにはいられないんだから、一年後までには「行ってきてよかったよ、わたし大人になったよ」って顔を上げて言えるようにならないといけないという妙な義務感を勝手に感じてる。おてんとさまの理論ですね。


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でも、もし、本当に何でも好きなことしていいよ、お金も環境も関係なく何でも好きな道選んでいいよって言われたら…って考えると、わたしは学問の世界に戻るかなあ。というか、今回渡仏する資金が22歳のときにあったら、大学院に行けたのになあ…って今でも思う。損得とか人の目とか気にしないで、純粋に興味持ったものに全部の時間と意識を集中させてたあの時間がもっと続けばよかったのにって、今でも夢に見る。だからフランスにしたのもある。まだ諦めてないんだろう。


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今日のメモ。住民税は代理人を立てなきゃ行けない様子。母に頼もうかな。PCのデータ移行は、今回新旧どちらもMacなので、FireWireケーブルでつなげば移行アシスタントという機能が全部やってくれるらしく、完全に移行元の状態を再現してくれるそう。すげえなMac(まだ作業前だけど)