悲しい時にこそ、楽しい間抜けな音楽を

今回のことは日本のエポックメイキングになると思う。でもこういう状況になって、自分がつくづく非常事態に弱い人間だと思い知らされた。「人間は人生のあらゆる段階において初心者である」ミラン・クンデラの言葉。たしかに。わたしは阪神大震災も奈良で経験してるけど、11歳のときに立ち会った震災と、28歳のときに立ち会った震災は全然ちがう。あのころはただ怖くて、状況がなにもわかってなかった。今は地震の仕組みも、メディアの役割も、これから復興のために何が必要になってくるかも、ある程度はわかる。わかるというか、どうすれば情報を手に入れられてどう判断すべきかを考える頭をもっている。そしてどう対処すべきか自分で決められる。そこまでが底辺、最小値。その先どう動けるかで、自分の実力が問われてる気がする。(昨日と同じことを言ってますが、今日は随分建設的でますらおぶりな感じです)


11日からずっと思ってたのが、自分のキャパシティの範疇を超えたことは無理に理解しようとしないでおこう、ということ。簡単に流されたりよく知らないことに意見を主張したりしないでいよう、と。小さくまとまってるのかもしれないけど、こういうときでも自分の領分をわきまえていたいってなんとなく思ってた。それはわたしが好きな人たちから絶えず教わってたことなんだろうなあって思う。


自分のキャパシティ。高校のとき好きだった男の子がcapacityを「包容力」って訳したことがある。(理系なんだけど言葉に対してちょっとロマンティックな感覚を持つかわいい子だった)わたしが包容できる範囲について考えたとき、もちろん友人や家族を大事にしたいとはいつも思ってるけど、今回、広告業に携わる人間として、こういうときにこそ情報を上手に整理して、深いところで人の感情に届くようなものを作るべきなんじゃないかなあって思った。この一週間、仕事として少しは役に立てたこともあったかもしれないけど、会社員じゃなくて人間として出来ることがあるんじゃないかって。…まあ、昨日までのあの不安定な状態じゃ、誰にも頼ってもらえなかったかもしれないけど 笑。でもまだうまくいえないけど、せっかく縁あってこっちの業界にきたわけだから、もっと真剣にこの道を考えてもいいのかな…とか少し思いはじめた。今の自分のキャパシティの範囲のままで下に掘り下げたら、広さは変わらなくてももっとたくさんのものや人を包容できるようになるかもしれない、などと思って。


悲しい時にこそ、楽しい間抜けな音楽を。
人のセックスを笑うな』の井口監督が、HAKASE-SUNに音楽を依頼したときにいった言葉。
そうだね。悲しみは悲しみとして受け取るしかないけれど、わたしたちはいつか笑えるようにならなきゃいけないんだもの。