女言葉


歌をうたうということが内なる思いの吐露とは限らないだろうけれど、まあそういう歌を歌ってるひとだということを知ってて、どんな文章書くのかも知ってて、育った環境もある程度知ってる、というひとがいたとして。
それでも実際に会って言葉を交わすと、とたんにそのひとが立体的に見えてくる。情報としてだけ頭のなかにあったものがフォルムを伴ってあらわれたら、やっぱりその体験はそれ以前の印象を凌ぐインパクトがある。実際に会っているその瞬間は、意識が目の前のひとに独占されているわけだから。
いや逆かもしれないけれど。
初めて直に会ったひとでも、先にそのひとの奥行きを知っていると、ちょっとしたことでもとても興味深く観察してしまうのかもしれない。文字では知っていたけど、こういう口調で話すひとなんだ、こういう仕草をするひとなんだ、って。ブログとかずっと読んでいるひとだと、その相手のことを少しは知った気になりがちだけど、メディア(媒介の意味のほうの)を通さずに話をすると、それまで読んでた言葉が全然ちがって聞こえたりするよね。別に今さら、ブログもツイッターSNSも捨てよとかいわないし思わないけど、少しでも直に話をすると伝わることっていうのがあるなあと。


たとえばわたしはここでずいぶん長いこと書いてて(7年だって。長すぎるよね。そのうち引っ越します)、わたしの会ったことないひとで読んでくれてるひともいらっしゃるようなのですが、確かにそういうひとのほうが会社で毎日顔を合わすひとよりもわたしの趣味嗜好についてはよく知ってると思う。でもそれが「本質」を知ってることになるかというとまたちがうかも。ていうか「本質」ってなんだ、という話でもあるけど。少なくとも外で人と会ってしゃべってることよりはここで書いてることのほうが内面に近いとは思うけど(だって考えてることほぼそのままだもの)、そのひとがどういうひとかっていうのは、どういう声で話すのかとか、こういうときとっさにどういう反応をするのかとかのほうが、繕えないぶん如実に出る気がする。オンラインとかだといくらでも繕えるからね。


でも、それこそ歌とか表現活動だと、ちょっと事情はちがうかもしれない。もちろんオンラインでのつぶやきだって創作物だと思うからぱっきりとは分けられないけど、歌うたってるひとっていうのは、ふつうの日常で誰かに話すには深遠すぎたり突飛すぎたりする思いを内側にためてるんじゃないかと。気軽に他人には言えないこと、言ってはいけないこと、自分からは言いたくないけど本当のこと、そういうのにちゃんと向き合って昇華するために歌をつくるんじゃないのかな。歌っていうのはあくまで例なので、小説でも映画でもいいんだけど。でも歌のすごいところは、身体が楽器だから生々しさがありすぎて気軽に無視できないところで。それこそ生身の身体をこっちに持たせ掛けられるみたいに、重くて湿度のある言葉をそのまま本人が歌ったら、こちらも身をえぐられるような聴きかたになって、それはけっこうつらい。


そのつらさを回避するために、コンポーザーとボーカリストを分けたひともいる。最近そんな話をしたばかりだけど、GLAYとかね。でも自分の声で届けなきゃ意味がないって思うひとたちはどうしたかというと、バンプみたいにお伽話に乗せて寓話として歌うパターンもある。
あるいは、男性が女言葉で歌うという例も見受けられるね。たとえばスガさん、にのみや、あとアキラくん。わたしが自分に置き換えて考えたら、男性言葉で何かを書きたいと思ったことがないから全然共感できないんだけど、完全に女性目線で物事を見ようとしてるのか、自分の気持ちを女性言葉にすることでリアリティを減らしてるのか、どういう意図なんだろう。一度誰かに訊いてみたい。
どちらにしても「俺」という自我を少し滅して「私」になりきることで、男の女々しさが消える気がする。女言葉のほうが女々しくない、というパラドックス。だけどなんでだろうね、女言葉で歌われる歌はだいたいエロい。あ、それでいくと自分の欲望を脳内の女の子に演じさせてる、という可能性もあるな。


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今まで音でしか聴いてなかったアキラくんの歌の歌詞を初めて文字で読んだら、思いのほか湿度が高くて意外だった。私を抱きしめて、ぐちゃぐちゃにして、だめにして、みたいな。わたしじゃ絶対に書けないような歌詞。仕事の移動中とかに聴いてしまうと歌に引きずられて内向的な気持ちになってしまうので気をつけないといけない、そんな歌ばかり。