数字が友達


数学者と画家と詩人は似ている。発想や思考や如何ともしがたい思いを、限りなく精製してそのエッセンスだけを瓶につめこむような職業。
それに対して、俳優と教師もまた似ている。その凝縮したエッセンスを溶かして誰かに話して伝えるのが仕事。
自分はどっちだろうって考えてみたところ、エッセンスの瓶を開けるほうの人間でありながら、その精製作業の気高さに憧れるタイプだろうな、という結論になった。


今これを読んでいる。

ぼくには数字が風景に見える

ぼくには数字が風景に見える

著者のダニエルくんは、小さなころから数字が友達。冒頭はこんな文章で始まる。


ぼくが生まれたのは1979年の1月31日、水曜日。水曜日だとわかるのは、ぼくの頭のなかではその日が青い色をしているからだ。

カレンダー計算が得意で、何年も前の日付が何曜日かが色と感情でわかる。ある数字が素数かどうかが感触でわかる。その「色と感情」とか「感触」とかの感覚が他の人より優れているのが、ダニエルのようなサヴァン症候群の人の特徴らしい。素数の話はおもしろかった。その数字を思い浮かべると「浜辺の小石そっくりの滑らかで丸い形があらわれる」そう。こういうふうに、数字を見ると色や形や感情が浮かんでくる現象を、研究者たちは「共感覚」と呼ぶ。


彼の脳は、他の人よりも右脳が発達しすぎていて左脳との連携がうまくいっていないらしい。そのために人とのコミュニケーションが上手にとれなくて、幼少期は強い孤独感や不安感に苛まれていたエピソードがたくさん綴られている。「他人の気持ちを察する」という感覚がわからないために、思春期になっても友達ができなかったダニエル。彼の場合ははっきりとした病名がついているけれど、でも読みながら、症状の重度のちがいはあるけれど、こういうひとはいるし自分もそうだったなあって思った。たとえば小さいころ、「人の嫌がることをしてはいけません」ってよく言い聞かせられてたけど、あるとき「自分はそれをされても平気だけど、されたら嫌がる人がいるんだ」って気づいたときのあのショックは大きかった。それまでは自分を基準に相手の感情を計ってたのに、その指標が揺らいだわけだから。それでもわたしはなんとか生きてきてて、今だったら、みんなだって他人の気持ちを上手に推し量れているのか不安なまま生きてるんだ、ってわかるようになったけれども。


いま広告業に携わってるわたしがいうのもなんだけど、現代ってちょっと「コミュニケーション」っていいすぎな気がする。伝えたい、繋がりたい、わかりあいたいっていう気持ちがどこもかしこもあふれかえってて、それが上手にできないと人間不合格、みたいな脅迫観念を感じる。もちろんわたしも人と話すの好きだけど、それ以上に、誰かのつくった絵画や音楽に対して、ただただ美しいなあとか気持ちが晴れるなあとか自分とちがっておもしろいなあとか、直感的に反応する反射神経を大事にしてたいと思ってる。わたしはダニエルみたいに、ふつうの人とはちょっとちがうかもしれないけどそのかわり数字や言葉に対するすごい感受性を備えてる人に憧れがあるから、すこし贔屓にしたくなるのかもしれないけど、誰だって突出した特徴ってあると思うから、その特徴をなるべく殺さないで異質なものをおもしろがってくれる環境であれば、そんなに人付き合いの大切さに躍起にならなくてもみんな生きやすくなるんじゃないかなあ。


なんかコミュニケーションの話になったけど、読む前はもっと、数字に対する共感覚について彼はどう意識しているのかっていう内容かと思ったら、自伝的な要素が多くてドキュメンタリー映画を観ているような気分。一人称で書かれてるし。今読んでるのはまだ、高校卒業してこれからどうしよう、っていうあたりだけど、でも数学の天才である彼が成長過程で何に興味を持っていたのかすごいおもしろい。図書館、チェス、歴史、外国語。うん、どうしても思いを馳せざるを得ない役者がいるんですけど、まあわたしが今そういう脳みそだからですね。明日はゲキシネ蛮幽鬼観に行ってきます。