春の歌


自分のことが自分でよくわからない、というのは不安なものだけれど当たり前のことだと思ってる。そういうものだと。でも最近特に、他人から「こうでしょう?」と推測されることがことごとく違いすぎて、不便ですらある。例の仮説思考的な表現をすれば、他人がわたしについての限られた情報の中から「こういう人だろう」という仮説を立てたときに、実際とのギャップがすごくて驚かせてしまう。しかもそのギャップの生じ方にどうも統一性がなくマイナスにしか作用しない。ある人はわたしをふつうの女の子だと思って扱ったら、どうやら違うみたいだねと残念がるし、ある人はわたしをアカデミックなものにしか興味ないと思って接すると、ちょうミーハーでびっくりさせてしまうし。これってわたしが外部へ自分の情報を与える、その演出の仕方が間違っているんじゃないかと思うんだ。ギャップも含めて演出したいと思ってる人はいいけれど、わたしはそうじゃないし。でもどう修正したらいいのかわからない。なぜなら自分がどう見られているのかについて傾向が定まらないから。以下ループ。


自分のなかでは全然矛盾がないんだけどなぁ。「保守的」と「大胆」、「もっと若いかと思った」と「もっと年上かと思った」、「女らしい」と「男っぽい」、「理詰め」と「感覚的」、「きちんとしてる」と「おおざっぱ」。全部最近言われた。でもさ、基本的に人間って誰でもそういう両極端な性質を持ち合わせているものじゃない。だから無理にセグメント化して理解しようとしないほうがいいよね。わたしは人間を年齢・性別でセグメント化するターゲティングが嫌いだ。一般的なやり方だからって正しいとは思えない。じゃあ感覚的に"当たるプロモーション戦略"を思いつけるのかというと、それも自信ない。わたしがおもしろいと思うものを社内でプレゼンして、共感を得られたためしがほとんどないから。どうもわたしの感覚は平均的ではないようだ。自覚はある。したがって広告業にはまったく向いてない。


仕事の話をしたかったんじゃなかった。


わたしの頭はマルチタスクに慣れてないので、今いろんなことがぐちゃぐちゃに放り込まれてて混沌としてる。なのでこれから話すことは行ったりきたりなんだけど、とりあえず文脈を端折っていうと、いま春の歌だけを集めて並べる作業をしてる。GLAYの「春を愛する人」という曲がわたしの人生でとにかく大事で、今になってどうして自分にとって大事なのかようやく説明がついた。わたしは自分の歪んだ純粋さというか、全身で伝えたい気持ちはあるんだけどその気持ちを瓶に密閉していつまでも眺めてるところを、自分でも少し怖いと思っている。そういうストレートすぎてブレーキの利かない不安定な感情が"再び"孵化するその瞬間、みたいなのが春を愛する人には詰まってるんだ。あの曲は春夏秋冬春、の歌なんだよね。幸福感とまばゆさに満ちているこの曲が好きで、昔よくピアノで弾いてたけど、今弾いたらあの傷つきやすそうなやわらかさに引きずられて泣いてしまう気がする。


うーん今ちょっと情緒不安定なのかもしれない。