モナリザは微笑んでいなかった


いつまでも私的な色恋話をトップに置いておくのもどうかと思うので、その森美術館トークショーで養老氏が触れた布施英利氏の最新刊の話など。


「モナリザ」の微笑み (PHP新書)

「モナリザ」の微笑み (PHP新書)


布施氏は芸大の美術解剖学の先生で、数年間東大医学部で解剖学の助手をやってた方です。人体を描くということ、身体を通して鑑賞するということ、その両面の研究をしてる先生。その2つのうち「人体を描く」を考えるときに、レオナルド・ダ・ヴィンチを抜きにしては語れないのは承知のとおり。今回はそのレオナルドの『モナリザ』についての著書です。


要点は主に2つ。
○「モナリザ」は"微笑んでいない"
○「モナリザ」=「レンブラント」+「セザンヌ」+「ピカソ


○「モナリザ」は"微笑んでいない"

この本の内容はほぼこの一文に集約される。「モナリザ」の表情をパーツごとに分けて解剖学的に分析すると、実は目とか口とかひとつひとつは微笑んでいないらしい。顔の表情筋と身体の骨格筋はそもそもタイプが違っていて、身体の骨格筋は両端が骨に付いているのに対し、表情筋は一方が皮膚に付いている。だから笑顔になるときは筋肉と一部の骨だけが動くのではなく、例えば頬の筋肉が隆起すると口角が上がるといったように、いくつものパーツが連動して動く。
レオナルドの絵を年代順に見ていくと、確かに前期は骨格を意識して描かれていたのが、後期になるにつれて筋肉の動きまで計算されているのがわかる。細かい表情筋まで描写できるようになれば、同じ笑いでも「ふふっ」と「にやり」の違いも描けるようになる。『聖アンナと聖母子』のアンナの微笑みなんかは、レオナルドの解剖研究の賜物だ。

でも最晩年までレオナルドが手元に置いていた『モナリザ』は、解剖学的に視ると微笑んでいない。それらのパーツが組み合わさったとき、全体として微笑みが生まれる。ただ、この辺の説明が不十分なので読んだ後もちょっともやもやしてる。人々があの女性が微笑んでいるように「感じる」かどうかというと否定しようがないけれど、「各パーツは無表情なのに全体として微笑んでいるように見える」のは何故なんだろう。わたしたちが「微笑み」を判断するときの材料は、目鼻口の形状と表情筋の動きだけじゃないってこと?


○「モナリザ」=「レンブラント」+「セザンヌ」+「ピカソ

1911年の『モナリザ』盗難事件のとき、ピカソが盗んだのではないか、って警察に連行された話はおもしろかった。アポリネールとかローランサンとか登場して、まるでワンシチュエーションコメディみたいなの。
まあそれはさておき。
モナリザ」のなかには、レンブラントの売りである"光と影"、セザンヌが描き出した"対象の深みと存在感"、ピカソが完成させた"多角的に捉えたパーツの融合"の全てが詰まっている。彼ら以外にもたくさんの画家がそれぞれの道を極めたけれど、「モナリザ」にはその「それぞれの道」の全てがある、だから「モナリザ」は重いんだ、ということ。
レンブラントセザンヌはさておき、レオナルドとピカソの共通点を見出したことはすごいことだと思う。言われてみれば、その2人の人間の捉え方は「描写対象としておもしろがっている」という点で非常に近い。「対象に対する愛」とか「描くことへの切実な欲求」とかそういうセンチメンタルな感情じゃなく、単純な好奇心が彼らを動かしてるように見える。画風は違ってもヒトを視る目が同じというか。




最後の章はモナリザから少し離れて、その他の「微笑み」の造形についていくつか例を挙げて、たとえば布施氏がギリシアのコレー像を観ていたとき無性に法隆寺百済観音像が観たくなった、という話など。布施氏の本の書き方は主観と客観が混じっていて、文献として洗練されているとは言いがたいけど、自分がもしこのテーマで書くとしたら同じように書くんじゃないかっていう気がして不思議な気持ちになる。それはたぶん、作品がそれ自体で完成されているということは有り得なくて、「自分(もしくは一般化された鑑賞者)」が観ることによって初めて完成する、という立場をとっているからだと思う。でもその考え方を形にするとき、単なるエッセイみたいになるんじゃなくて、もっと追究して人工知能とかロボット工学とかまで至ってしまうのが布施氏はおもしろい。


レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画って、イタリア中心に十数点しかないんだって。全点踏破も難しくないそう。いいな。いつかやりたいな。