メゾンエルメスにて


ファッション文化は好きだしいろいろ試着するのもほんとは好きだけど、ファッションにお金を使うのが好きではないので「世の中みんなが裸で過ごせばいいのに」とか思ってる人間です。他人が自分のことを思い出すとき、あの人どんな服着てたっけ、って洋服の印象を思い起こさせないくらいがちょうどいいんじゃないかと思います。幸いわたしは平凡な容姿をしているので、大抵どこに出て行ってもとけこめる(と思っている)のですが、いやはや今日はハードル高かった。


  「大きいものと小さいもの−チャプター2」ジャン=ミッシェル・アルベローラ展


  会期:2009年10月10日(土)〜11月29日(日)入場無料
     月〜土曜 11:00〜20:00(最終入場19:30) 日曜 11:00〜19:00(最終入場 18:30)
     会期中無休(ただし11月18日(水)、24日(火)、25日(水)は除く)
  会場:メゾンエルメス8Fフォーラム(東京都中央区銀座5−4−1)
  主催:エルメス財団

  http://www.echigo-tsumari.jp/2009autumn/2009/10/2.html


銀座のエルメス


やーさすがに気を使った。入るとき、やっぱり一瞬躊躇したら、店員のお姉さん(マヌカンっていうの?)が気さくに話しかけてきてくれて、エレベーターまで案内してくれました。エルメスすっごい良い匂い!うっとり!そしてお姉さんがちょう優しくて、肌と髪が絶世的に美しい。こういうのをエレガントっていうんだな。日々是勉強。


今日これを観に行ったのは友達*1の勧めだったのですが、ここまでで既に非日常。しかし楽しい。こういうときの自分は、内面ではどきどきしてても、表面的には豪胆に装ったりします。


ジャン=ミッシェル・アルベローラについては、予備知識をほとんど持たずに行きました。なので、彼については今回の展示で見たグラフィカルな側面しか知らないのですが、どうしてああいう作品になるのか彼の思考を全くトレースできなくておもしろかったです。アルジェリア育ち・フランス在住、だそうですが、色彩感覚とタイポグラフィーは完全にヨーロッパ的だと思う。でもひとつひとつの…あれはなんていうんだろう。絵の具がつくる形?それがどうしてそういう輪郭になるのか、どれをとっても全くわからない。でも統一されたセンスを感じるというか、偶然の産物のようでそうではなく、意図された造形のようにはまったく見えず、彼の手がそれを描く瞬間に直感的に選んだ形だ、としか形容のしようがない。小さな作品(切符をはじめちょっとした紙片の裏にべったり描いてある)にはほとんど言葉が添えてあったんだけど、言葉と絵のあいだには連携があるようで、ないようで。でもおそらくだけど、この人は、言葉にはあまり即興性を持たせていないと思う。それはたぶん、自分の描く絵のほうに信頼を置いているから。言葉は自分の外側にあるルールで、それを内側で解釈して吐き出すと、ああいうグラフィックになるんじゃないかなぁ。


「自分の作品に信頼を置いているかどうか」というのは、作品の善し悪しとは関係ないんだけど、制作者が自分の手から生まれたものが自立してすくすくと育つ状況をイメージできているかどうかによって、観る人の思考の自由さも左右すると思うので(「観る人」には制作者自身も含まれる)、わたしには重要な判断基準だ。彼の作品を見てわたしは無性に絵が描きたくなったんだけど、わたしは自分の絵に信頼を置いていない。文章のほうだって決して満足できるようなものではないけれど、大量に書いてればときどき自分の文章が知らないところで育ってる、って感じることがある。自分の描く絵にはその片鱗すら感じない。


そんな彼の紡いだ言葉の中で、唯一気に入ったのはこれだ。


   Le remplacement du verbe 〓tre par le porter



和訳では『「ある/いる」という動詞を「持つ/運ぶ」という動詞に置き換える』となっています。“ある/いる”という動詞は、「そこにある」とかいうと、どうしてもどっしり根を下ろしてしまう感じがするんだよね。本当は軽やかに動ける動詞なのに、あの作品の鉄の塊みたいな重さを内包してる。それが「持つ/運ぶ」みたいにポータブルな動詞に置き換えてみたら、一気にいろんな重力から解放されるんじゃない?っていう意味だと、わたしは解釈しました。「私は男性である」を言い換えて「私は男性という性別を持ち運びしている」って言ってみるとか。


まあ、その言葉を持ち運ぶケースがエルメス製だったら、それはそれで重いんだけど!
(もちろん貨幣的な価値という意味で。本革とかそういうことではない)