後悔


これから書くことを本当に届けたい人はもうどこにもいない。それでも心のなかに収めていられなかったのは、この文章を遺すことによって懺悔のかわりとし、あのときのことに縛られている自分を解放してほしいと思ったから。


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北海道のかりん舎さんから、村岸くんの作品集が届いた。それはもう本当に思いがけないことだった。作品集づくりが進められていたのは知っていたけれど、積極的な気持ちで完成を待ったり、編集に携わっている方たちに声をかけたりすることができなかった。それはわたしにとっては単なる1対1の友人であったからというのと、今でもわたしは彼のことについて他の人と話すという状況にたぶん耐えられないと思ったから。だけどもうひとつ、ずっと心に引っかかっていたことがあった。ずっとずっと後悔していて、でも誰にも言えなかったこと。


去年の7月、わたしは彼のお母様とお会いした。彼の命日は8月だったけれど、その時期に札幌にいるのはなんとなく避けたかったし、東京で夏の到来を待つのもいやだった。…と書いてみたものの、そのときの正直な気持ちは今ではもうトレースできない。とにかく令子さんとお話がしたいと思って連絡をしたら、ご自宅に招いてくださったのだった。


令子さんはわたしが村岸くんのことをここで書いていたのを読んで、わたしのことを認識してくださっていたんだけれど、実は直接お話するのはそのときが初めてだった。とても華奢で静かに言葉を発する人だった。彼が前に「静かに話す人が好き」と言っていた(本当はもっとちがう表現だったかもしれないけれど…こうして記憶がわたしの手からすべり落ちていくのを見るのはなんとも悲しい)ことをわたしは令子さんに伝えた。


令子さんと話したいと思ったのは、正直に、誤解を承知で言うけれど、村岸くんを喪失したこの悲しみを共有できる人は他にいないと思ったからだった。さすがにお母様である令子さんに言うことは憚られたけれど。わたしは自分の立ち位置を令子さんにうまく説明することができなかった。同じ研究室で…という話はしたけれど、何かをいっしょに制作したり、彼の演奏会に立ち会ったりすることはほとんどなかった。ただたくさん話をする関係だった。大学の研究室で、札幌の街で、東京で、パリで。彼と話すときは、とにかく歩いていた記憶がある。わたしは先輩だけれど教えてもらうことばかりだった。でも彼がいなくなってから気づいたことがあった。誰かと2人でいた記憶というものは、相手がいなくなると誰とも共有できないということを。


彼が亡くなった後、わたしは東京にいたこともあって村岸くんの話を誰かとすることはほとんどなかった。今だからいう。あの年の秋、わたしは高知の鏡川へ行ったんだ。そのことはずっと黙っていた。令子さんに会って、初めて話すことができた。


そして令子さんは別れ際に「よければ作品集に寄稿してくれませんか?」と言ってくださった。わたしはそんなことできないと思って遠慮した。わたしは自分のことを、村岸宏昭を語るにふさわしいどの側面にも立ち会っていない、単なる傍観者だと思っていたから。けれど令子さんは、是非お願いしたいとおっしゃってメールアドレスをくださった。まだ制作途中だから、お待ちしています、と。わかりました、とわたしは受諾した。


それから二ヶ月後。令子さんとの約束ではあったけれどどうしても筆が進まなくて、ただ月日が流れてしまっていることに後ろめたさを感じていた矢先のこと。令子さんが亡くなったという。でもわたしに連絡をしてくれる人はいなかった。知ったのはしばらく経った後、Web上のどこかでだったかと思う。つまり、そういうことだ。点と点のつながりは、片方が失われた瞬間に、残った点が宙に孤立する。


令子さんは、どんな風な気持ちで待っていてくれていたのだろう。「書いてくれたらいい」くらいなのか、それとも「彼女が書いてくれるからここにページを割きたい」というくらい具体的に考えていてくれたのか。編集に携わっていた人たちなら知っているかもしれないけれど聞きたくない。そうしてわたしは、早く令子さんに寄稿文を届けなかったことで今もずっと自責の念にかられている。


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出版元のかりん舎さんにさっき電話をしたら、坪井さんという方が出てくださった。村岸くんのお兄さんから渡された名簿をもとに贈ってくださったらしい。わたしひとりでは、きっと「1冊ください」という勇気がなかっただろう。


そう、わたしには彼と彼のお母さんの存在があるから、大切に生きないといけないんだ。
謝りたいと思ったままさよならをするのは、もういやだ。