「女の子」≠「女の子」


一昨日、昨日と飲んだくれていたので、
あすかさんへのフィードバックができませんでした。
せっかくご紹介までしてくれたのにすみません。


ちなみに、昨日お酒を酌み交わしていたのが件の幼なじみの女の子でした。
彼女はアゲハを愛読する弁護士でです。最強。


さてさて…





ふわふわと考えてることをアウトプットすると、
自分が何を考えているのか、その中心がはっきり判る。
論点は2つですね。
「『女の子』が示すものが何か」と、
「女子でありながら『女の子』について考えるというのがどういうことか」と。



わたしは自分が女子だから、「女の子」であるものだと思っていたのですが、
それがどうにもあすかさんのいう「女の子」にあてはまらない。
それで、「女の子って今やお伽話みたいな存在」って思ったのでした。

だとしても、そこにほんとうの女の子が共感できる何かがなければ、
私のファンタジーは成功したとは言えないですけれども。


とフォローしてもらっちゃったのは、ちょっと慌てましたが。
ごめんなさい、いいんですよそのままで。



性別としての「女の子」と、コードとしての「女の子」は違う、ということなのですね。
確かに、女の子の仲間意識というのは、男性よりも強い気がする。
裏を返せば、仲間外れを許さないし、自分がそうなりたくない意識が強い。
そして、これが決定的に男性と違うところなのだけれど、
女の子はきれいな女の子に対する賛美が積極的で過剰。
電車の中で、男性は女性を見ているらしいけれど、
女の子に聞いても大抵「美人な女の子を見ちゃう」という。
それは嫉妬ではなくて、自意識の高さが自分と同性に興味を向かせ、
その美しさをなんとかトレースしたいと望むんだろう。
それと同じことが、小さなコミュニティというか「女の子のサークル」でも起こっているのかな。



というのがわたしの理解ですが、そういう自分はあすかさんと反対に、
女の子たちの集団から抜け出そう抜け出そうとして生きてきた気がします。
女であることを嫌だと思ったことはそんなにないけれど、
女の子たちが集団になると、どうもわたしには相性が合わないというか、
そこにいるメリットが見いだせない。
大学に入って、大人になって、次第に「女の子たち」のなかにいなくても
気を遣われなくなって、ようやく深呼吸ができるようになった。
だから、一人ひとりの人間が「女の子」というコードそのものを有しているわけではない、って
いうことだと、とても納得。
わたしにはどうしてもピンとこなかったから。



ところでわたしが「女の子らしい」というときに指すものだって、結構表面的です。
レースのスカート、お料理が上手なこと、言葉づかいがきれいなこと。
ずいぶんと古風ですが、mcSisterが描いていたような理想の女子像が、
今もわたしの思う「女の子」なのです。