女の子中毒


あすかさんが「女の子性」について書いていたので、
わたしも女の子の端くれとして、思うところを語ってみようと思います。



あすかさんのいう「女の子」は「3人以上のサークルに属している女の子」を想像させるのですが、
そういう「女の子だけが平等な立場で3人以上いる環境」ってよくあるものなのでしょうか。
批判じゃなくて、単純な疑問として。わたしには実感がないので。
例えば高校までの学校っていうのは特殊な場所で、同じ制服を着て、同じ教育を受けて、
同じ人たちに囲まれて、比べられて、違う評価をされる。
そういう場所では逃げ場がないし、精神的に未熟だから、何が大事かが判らなくて
人と自分が同じところと違うところを探すことに必死になる。
わたしは高校時代にすっごいモテる女の子たちと仲が良かったので非常につらかった。
でもあとから聞いたら、みんなも同じように感じてたらしい。
あの他人の評価にもたれかかって自分を押し殺している感じが
十代の女の子たちならではの儚さなのかなぁと思う。
「女の子になりたい」というのは、そういう不安定な気持ちに戻りたい、ということのなのでしょうか。



大人になるほど「女の子のサークル」ってお伽話のような存在になってきた気がします。
他の子は知らないけれど、わたしは女の子と結束を強めるために女の子でいたいと思ったことはないし、
可愛くありたいと思うのは、一番が自分のためで二番が好きな人のためで、三番以下はないので、
女友達に認められるために努力しようという頭がすこんと抜けているようです。
もしある女の子に会うときに可愛くしていたいと思うとしたら、相手が大切な人だから。
そういうのって、1対1の関係で相手のために礼を尽くそうとする意志なので、
自分が女の子であることを示すこととはちょっと違う気がする。



わたしが鈍感なのかなぁ。
あすかさんのいうような「残酷で可愛くて恐ろしい女の子」と友達になったことがない気がする。
いや、女の子の友達自体が非常に少ないのだけど。



今年の春先に、幼稚園時代から知っている幼なじみの女の子が会社の近所に越してきた。
しょっちゅう一緒にランチを食べたりして、今彼女がいちばん仲良しの友達だ。
わたしは彼女に完全に心を許しているし、彼女と髪や洋服の話、仕事の話、
彼女の旦那さんやわたしの恋人の話をするのが本当に楽しい。
ふつうのことかもしれないけれど、これまでそういうふつうの話をできる女友達がそばにいなかったから。
そういう他愛もないおしゃべりと、相手を信用することって、女の子同士では両立しないものなのかしら?



わたしは自分のことを、比較的女らしい外見を持った人間だと思っているけれど、
装いや立ち居振る舞いを女らしくするのは美的な好みの問題であって、他人のためではない。
女であることよりも知的であることのほうが、自分の人生には役に立ってくれると思っている。
知的な判断ができれば、理性的に人を許すということと、自分に必要な人をきちんと選ぶということを
兼ねることができるので、結果的に、限定されたサークルに縛られなくても気持ちよく生きていられる。
自然とそういう思考になりそうなのに、同じ意識の女の子とあまり会ったことがないのは、
女の子独自の「女の子性」に、中毒性の魅力があるからなのでしょうか?