スカイクロラ

スカイクロラの話を書こうと思って、全然書けなかった。


7月くらいからずっとスカイクロラのシリーズを読んでる。なんとなくヨーロッパの空気に合う気がする。こっちに持ってきたのは『スカイクロラ』1冊だけだったんだけど、物足りなくて『クレイドゥ・ザ・スカイ』をジュンク堂で買って。その2冊を繰り返し読んでると、もうどうしようもなく今全部読みたい!ってなって、結局実家から『ナ・バ・テア』『ダウン・ツ・ヘヴン』『フラッタ・リンツ・ライフ』を取り寄せた。


スカイクロラは不思議な話だ。何が不思議って、読んでる時間は幸せでこの浮遊感がずーっと続けばいいと思ってるんだけど、読み終わった後に、時系列での記憶とか登場人物の詳細とかがほとんど残らない。思い出すのは断片的なシーンばかり。飛行機のキャノピィから見える風景、基地の宿舎でシャワーを浴びてあったまったこと、コーヒーが地獄みたいに苦くておいしかったこと。何を読んでるのかわからないまま終わって、そのうちまた読みたくなって、読めばストーリーは覚えてるんだけど、また忘れて何度も読んでしまう。音楽みたいなもの。歌詞もメロディも知ってても、みんな何度だって聴くでしょう?


子どもって、繰り返しが大好き。同じ歌を同じ童話を何度も何度も繰り返す。大人みたいに、何かの役に立つような有用な情報がほしいんじゃない。楽しい時間が続くこと、それ自体が目的。それが純粋な遊びなんだと思う。スカイクロラを読んでると、そういう記憶を思い出す。公園で遊んでて、5時の音楽が街のスピーカーから聞こえて、帰らなくちゃいけないってなったときのあの名残惜しい感じ。疲れたからとか明日のことを考えてとかそういう理由じゃなくって、帰らなきゃいけないから帰るけど、また明日の放課後ここで遊ぶ約束をして名残惜しさをシャットアウトする。本当はいつまでだって遊んでいたいのに。カンナミもクサナギもクリタも、いつまでだって飛んでいたい。そういうところが子ども。このシリーズ自体、わたしもただ読んでるだけで秩序立てて考えてないから、これこれこういう話で…ってうまく表現できない。ただただずーっと読んでいたい。長い夢を見ているみたい。さすがに2ヶ月分くらい断続的に浸かってたら、あー『クレイドゥ・ザ・スカイ』のところに濃い靄がかかってるせいでぼんやりしてるんだなーって見えてきたのが最近の話。でもそれを考えて、この「僕」が誰で、時系列的にはどこで、ってイメージを固定化することがほんとに大事なことなのかな。って思う。だから別に理解できないままでもいいやって思ってる。


飛行シーンがすごい好き。そこだけ読んだりとかもする。視界がくるくるまわる。内臓にぐうんと重力を感じる。ベッドの上でおとなしく文字を追いながら、心だけが飛んでる。そしてちょっと乗り物酔いしたみたいに気持ちわるくなって、そのまま眠る。それが幸せ。


けど、あまりにぼんやりしていたために、最後の短編集の『スカイ・イプリクス』を読んでない気がしてきた。いや、もしかしたら読んだのかな…本当に記憶が曖昧。でもそうやって、日常から切り離された世界にときどき逃げることで、普段の生活とのバランスをとってるのかもしれない。それは芸術の大切な機能。


スカイ・イクリプス

スカイ・イクリプス