言わない言葉


「ディズニーシー行きたいなぁ」と口に出してから、しまった、と思った。電話中だった。さっそく日取りを決めていそいそと有休をとってしまった相手に申し訳ないなぁと思ったのは、かつて大切な人と行ったことのある場所だったから。あれもむせかえるほどに湿度の高い夏の日のことだった。


京葉線舞浜駅。リゾートライン。入園ゲート。同じルートを二度目たどることで思い出が蘇るかと思いきや、そうでもなかった。憶えていることはここに来なくても憶えているし、まったく記憶から抜け落ちていることもある。わたしは以前来たときのことを特に口に出さなかったけど、相手もどうやら同じように昔の彼女と来たことがあるみたいだ。お互いに触れないのはそれが礼儀だから。わたしたちはお互い詮索したり嫉妬したりする性質ではないけれど、礼儀を重んじるのは、必要以上に考えなくても済むから。でも壊れてしまってもいいものに対して礼をつくすのって、我ながら非合理的だとは思う。おそらく手を抜いているのだろう。少なくともわたしは。


季節はめぐる。かつてディズニーシーに一緒に行った人とはそれ以来会っていない。おかげで彼は繊細な少年性を留めたままパッケージングされ、今もずっとわたしの創造の泉、いわばミューズでありつづけている。


答え合わせをしてみたいと思う。あのとき彼は何を思っていたのか。あの日は笑っていたけど本当に心から楽しかったのか。わたしは彼の人生においてやはり邪魔でしかなかったのか。それならどうしてあの日ディズニーシーへ来たのか。彼から逃げるように北海道へ行って、初めて自分の好奇心に向き合って、今では充分すぎるほどひとりの時間を楽しめるようになったけれど、「十年たったら教えてあげる」とわたしが彼にした約束は、ずっと果たされることのないまま保管期限を過ぎてしまった。


わたしは楽天的だと思うけれどまわりの人を照らすほどの照度はないし、知りたいことはたくさんあるけれどその知識を誰かに還元したいとは思わない。自分に関心はあるけれど他人に関心を持ってもらいたいとは考えない。自分以外の人への期待が極端に低いので、仕事以外ではあまり怒らない。ずっとへらへら笑っていられる。それが叶えられなかったら自分から離れるだけだ。もしその手段が上手くいかなくても、お腹の中で不満に思ってるだけで結局言葉にできない。反対に自分が相手の期待に応えられなかったときも、過度に自責の言葉を口にしない。子どものころからそうだったわけじゃない。わたしは彼みたいになりたいと思って、自分をこういうふうに育てたんだ。


まだ若かったとはいえ、恋という名の下にあんなに迷惑をかけたのは人生最大の後悔だ。それでも、今思えばあれは「甘え」と表裏一体だった。「わたしとあなたは似ているから、こういう気持ちわかるでしょう」という甘え。それは大いなる勘違いだったので、わたしは他人との感性の近さというものを信用しなくなった。そして自分と全然趣味嗜好のちがう人を選び、そのうちもれなくがっかりする。


ディズニーシーの後、都内のホテルに一泊した。少し贅沢な夏休みのはずが、家に帰ってきてこんなにもほっとしてる。お願いだからわたしをひとりにしてほしい。でも言ってもわからないだろうから言わない。