芸術家とデザイナー(後編)


ムナーリの話、前編からの続きです。


             *


ところでこないだ
堺雅人はわからないことをわからないって受け入れられる人だからいい」
というようなことを書いたけれど、
この本を読んでいて、長年の謎が解けたことがあった。


芸術学をやっていたときに疑問だったのが、
ふだん美術館に行かない人を誘うと同じ言葉が返ってくること。


「美術とかわからないから」「この絵、よくわからない」


わからない、というのは何を意味するんだろうかってずっと考えていた。
わからないという感情は、嫌なものなのか。
作者はモノを作るとき、わかってもらいたいものなのか、
わかってもらおうと努めるべきなのか。


わたしのことでいえば、例えば絵の主題が一瞬で判別できなくても、
何かひっかかるものがあれば、その意味することを考える。想像する。
そのひっかかりがなければスルーする。
作品の寓意とかよりもビジュアル的な要素に吸引力があれば、そっちばっかり観る。


そうして、「わからない」っていうカテゴリに入れられた作品もあるけれど、
それは、最初の時点で興味がないと判断された「わからない」ものとは
圧倒的にちがう。
それがどうちがうかというと、ムナーリによると

  「作品が観る人を参加させる意志を持っているかどうか」

だといえるみたいだ。


参加って、別に双方向コミュニケーションみたいな意味じゃなくってね。
なんらかの感情を引き起こさせるとか、自分に関係あるものだっていう
意識にさせるっていう意味に広義に解釈すると、途端にいろんなことがわかってくる。
人に訴えかけようとしていない作品を作って、大衆には理解できないだろう、と
満足するのは、ムナーリの考えでは前時代の芸術家だ。
19世紀の芸術家なら、たった一人のパトロンと著名な批評家が喜んでくれることを目指す。
でも、現代に生きるデザイナーなら、大衆の好みをつかまなければいけないし、
むしろ大衆の理解の手助けをしなければならない。


だけど、今の日本のプロダクトは親切すぎるよね。ニーズに応えすぎ。
参加させようとする意志はあるけれど、簡単にはわからせないくらいが
ミステリアスでおもしろいと思うけど。
でもそのぎりぎりのところを狙うのって、人間のことを良くわかっていないと
できないだろうね。
わたし?わたしの作っているものは…
顔の見えない読者を意識したことはないけれど、恩師とか友人を驚かせたい気持ちはある。
それと、一番最初の読者である自分のことも。


           *


春がちらちら顔をのぞかせてきたので、わたしの心もオープンになってきたようです。
四季それぞれにしたいことをできるなら、
春は芸術、夏は旅、秋は文学、冬は数学、っていう暮らしがしたいね。
でもやっぱり桜の季節がいちばんすき。
そろそろお花見しましょうね。