憲法


昔わたしのことを「微笑みの下でいつも何かに憤っている」と表現した人がいた。そのときはあんまりピンと来てなかったんだけど、今になってよくわかる。最近自分が不機嫌だったり怒ってたりするのをよく自覚するようになった。それは今の自分の環境がただ単に弱く繊細なだけではやっていけないからだと思ってたんだけど、もしかしたらわたしを突き動かす大きな要素には「憤り」があったのに、それをずっと見ないようにして自分の奥底に隠してきただけなのでは、って気がついた。


何に怒っているかというと、他人にもだし、自分にもだし。前は思ってることを何も言えない人間だった。自分が黙っていればいろんなことがうまくいくんだと本気で思ってて。でもそれって他人任せでずるいなあと思うようになった。自分が被害を被らないために何も主張しないことが一番の選択である世界に生き続けるのは嫌だって、あるときから強く思った。


でも同時に、そうやって自分の立場を表明すると、それに自分自身がつられて無意識のうちに心の中で自己弁護してることがある。そういう自分に気づくとなおさら憤りを感じて、そちらの思考や行動に凝固することから逃げるために強烈に自制心がはたらく。自分の言うこと為すことに懐疑的になったり、その件について考えることを放棄したり。そうやって今、これまでになく自己検閲が厳しくなってる。ある怒りの正統性に対する懐疑、そもそも怒りという感情に対する反省、さらにはそういう感情をアウトプットすることに対する自制。もっといえばそのことに感情的に関心を持つ自分への苛立ちがあって、最終的にそこですべてのベクトルが自分に戻ってくるので、ひとりで暴れ回った後ぐったりとする。


何のことを言っているかわかる人とわからない人がいると思うけど。例えばわたしはここでしばらく書いてなかったんだけど、なんかいろんなことを考えているうちに、自分の悪意や弱さ、怠惰、卑小さ、今まで「あちら側」のものとして直視してこなかった感情を最近嫌っていうほど自覚するようになって、そこでわたしは戦わなきゃいけないんだけど、最終的に「そんなこと考えてる暇があったら勉強しろ」っていう現時点のわたしにとって最高の憲法服従して全部を飲み込むことになる。自分の意思とか感情とか、わたしが今勉強すれば受け取れる世界の叡智にくらべたらどうでもいいわ、って。全然例えばの話になってないな。じゃあ何故今日書いたのかというと、「そんなこと考えてる暇があったら勉強しろ」は「そんなこと考えている暇があったら台本を一行でも多く覚えたほうがいい」に由来していて、今日はその優先法則ですべてのことが回っている人のリーガルハイ最終回だからです。わたしを律する憲法はそういう宗教的精神に支配されています。