熱海殺人事件3

人間の記憶の仕組み、ずっと中にしまっておくと薄れていって、外に出すと強化されるというのが謎で仕方がない。こぼれないように密閉してるほうが少しずつ薄れていくってなんでだよ!疑問があさってな方向へ向いています。


そういうわけで、熱海の話を。書いたら熱海が本当に終わってしまうような気がして延ばし延ばしにしてたのだけれど。書かないと失われてしまう自分の鳥頭をうらみつつ。


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今回の熱海では、観るたびに違うものが見えて毎回初見のように興奮してたんだけど、特筆すべきは楽前日の27日夜公演のこと。突然わたしの中でコペルニクス的転回が起きた。それまで何度も観て来た通常公演なのに、その瞬間いきなり雷に打たれたように(イナビ的な)この熱海殺人事件の解釈が正反対の方向に覆されて目を見開いた。たぶんこれがわたしのファイナルアンサー。


いきなり結論から書くと、錦織演出の熱海では「金太郎くんはアイちゃんを殺していないのでは!?」っていう。


最初は逆だと思ってたの。小説ではその辺あいまいにされているけど、錦織演出では、金太郎くんが殺したこと前提なんだな、って初日観たとき理解した。そこは所与の事実として、その殺人の動機以外の部分を掘り下げようとしているんだなあと。
でも、もしかして真逆では!?と思ったのは、金太郎くんの供述でいくつも矛盾があるところがずっと気になっていたから。


たとえば、ユニマットのお兄さんが持って来た現場写真に金太郎くんは尋常じゃなくびっくりして、その後「…いや」って何かを隠すそぶりをしたこと。それから、「バスを降りて歩きました…」からの金太郎くんの独白のなかで、「彼女が身体を丸くして風を遮ってくれたことが、どうしても思い出せないのです」の部分、金太郎くんはどうして思い出せなかったのか。「そしてお決まりの、お盆になったら田舎に帰ることを、彼女は楽しく話してくれました」と、その後の回想シーンの「なんねアイちゃん、朝からイライラして」の齟齬。「朝、新宿で待ち合わせて踊り子号で行きました」「おいは一晩中眠れんかったとばい!」と「(午前11時!) 山口アイ子を新宿で待ち伏せし、一緒に喫茶店に入りました!」の時系列の混乱。


これらの矛盾を説明できる答えとしては、ひとつしかなかった。金太郎くんは本当のことを言ってない。つまり、アイちゃんを殺したこと自体が疑わしい。


ここからはわたしの推測だけど。
アイちゃんと熱海に行った回想シーンは、途中まで本当なんだと思う。でもアイちゃんは、自分以外の誰かに殺された。金太郎くんにとっては、世界で一番彼女を愛してた自分以外にアイちゃんを殺した人間がいることは、何よりも認めがたい事実だった。だから、あの回想シーンのラストは金太郎くんのなかで事実と嘘が混濁してる状態での「演技」なのではないかと。アイちゃんから「大関になった一番覚えちょるよ」っていうたった一言を最後まで聞けず、その絶望によって自分が彼女を殺すという究極の愛の結末すら打ち砕かれた。その二重の絶望が、金太郎くんの中で「殺すほど愛した自分」の虚構を作りあげたのでは。


ユニマットのお兄さんが持って来た写真にあんなに動揺したのは、アイちゃんが殺されている現場写真をそのとき初めて見たから。バスを降りて二人で楽しく話した記憶は、金太郎くんが捏造した二人の幸せな姿。午前11時!13時!っていうのは、伝兵衛のエゴイスティックなやり方にいつのまにか引きずられて、「一晩中うきうきして眠れなかった金ちゃん」ではなく、「衝動に身を任せ熱海に逃避した恋人たち、そして愛に身を焦がした故に悲しい末路を迎えた殺人犯大山金太郎」のイメージが、現実を凌駕したから。


錦織さんの意図がどうだったのかは、おそらく聞けないので、どういう解釈が正しいとか正しくないとかはもう意味がないと思うんだけど。
「金太郎くんは自分で自分の記憶を捏造したのでは」っていうことを考えていて、そもそもこの熱海殺人事件っていうのは、そういう話だったじゃん、って思い至った。つまり、伝兵衛と水野さんと熊田さんが、それぞれ自分の思い描くドラマティックな殺人劇を金太郎くんに押し付けるっていう構造。「海といえばこう!」「山口アイ子は海が見たかったんじゃない、海というイメージにすがりたかったんだなあ(語尾あいまい)」熊田さんが劇中ではっきり言ってくれているじゃんっていう。


というのも、この舞台をどう観るかというときに、観た人それぞれが各々自分なりのストーリーを補完していたような気がするから。美醜の問題、貧富の問題、都市と地方、アイデンティティ、どのテーマに引っ張られるかはものすごく個人的なコンプレックスに由来している。それはわたしも同じで、だからわたしは金太郎くんの事件における愛の問題に、普遍性とか自分の美学を押し付けようとした。今ならわかる、わたしはその問題にずっと固執しているんだ。そしてその記憶自体が、上京してから5年間ずっとアイちゃんのことを想ってた金太郎くんと同じく、田んぼのアヴァンチュールとかあぜ道のラブアフェーアとか、小さなエピソードを壮大な愛の記憶として塗り固めたものなのだと。


初日観終わったときの自分の感想をさかのぼった。「デップくんやべえ」「つかこうへいの他の作品が観たい」「わたしのミューズに会いたくなった」って書いてあって、一番最後のがわりとわたしの熱海の中枢に作用してた気がする。


最初から最後まで、わたしは熱海に関してネガティブな感情が沸かなかったんだよねえ。それは金太郎くんがアイちゃんを思う気持ちがちょっとわかるからだと思う。整形とか売春とかそういう醜い事実を含めて「愛してる」って言えてしまう金太郎くん。本当に引き受けられるかは別にして。そう無闇に自信もって言い切れる理由は、「大関になったあの一番」っていうささやかな思い出にあるわけだけれど、アイちゃん当時12、3歳(「17、8の娘」の5年前だから)だし責任がとりようもないよね。だから金太郎くんが愛してたアイちゃんというのは、もう虚構のアイちゃんなんだろう。自分の中にいる理想の女神のために、人生捧げると決めた金太郎くんは、究極のエピソード担であって、生死をかけた虚実入り混じる芝居をあの取調室で完成させたんだと思うんだ。


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そして虚が実に侵入するということでいえば、とつかくんには虚の世界があるというのが非常に救いになっているとわたしはずっと思ってて。
とつかくんが異常なくらい映画や小説を摂取する(したがる)のは、ステージっていうフィクションの世界から降りると、毎日毎晩とつかしょうたという自意識に否応なく向き合わなければいけないことを怖がってるからだと思ってる。だから、わずかな時間の隙間さえ別のフィクションで埋めるのだと。ふつうはしんどくてそんなことを続けていられないと思うんだけど、とつかくんはたぶんちょっとその辺が麻痺してる。そして今回の熱海では、ジャニ舞台よりもさらにとつかしょうたから離れて、完全にプレイヤーとして錦織さんやつかこうへい関係者の演出を受け、膨大な量の台詞を飲み込んでは吐き出し、この全然リアリティのない虚構の世界に必死で格闘して。そうしてる間、とつかくんは自意識を遮断されてたような感じだったんじゃないかと想像する。三郎のときみたいに「おれは金太郎になるんだ!」って。見てる限り心身共にぎりぎりの状態だったと思うけど、われわれ人間の直視したくないところを抉るようなあれくらいの過激さが、とつかくんの頑なさを破るのには必要なのかもしれない。あの子は破滅型の思考ではあるけれど、ステージの外ではみんなに好かれる優しい子だし、コンサートで暴れるときでもだいぶ選んで暴れてる。そういう常識的な理性と内部の暴力性がずっとかみあってないのがとつかくんで、それはすごくおもしろいところだとわたしは思ってるんだけど、とつかくんから考えることを取り上げて、虚構の物語に没入させ舞台上で爆発させることが、とつかくんにとっては解放になるんじゃないかって。だから、千秋楽の挨拶で「幸せでした」って笑っていえるとつかくんは、熱海前よりもずっと自由になってるように見えた。自分じゃない人間になって死んだり殺したり叫んだりすることがとつかくんの何らかの治癒になっていてるとしたら、きみはもうずっと舞台に立ってなよ…!って思ったよ。


役者としてこうなってほしいとか、グループとしてこの夢を叶えてほしいとか、そういう希望がないとは言わないけど、ほんとに最終的にはとつかくんが生きててくれて、こうやって未知の世界と全力で対峙してるのを見れたら、それがわたしの願いの全てだなあと思う。なんかわたしはやっぱり、とつかくんのここが好きとかそういうことじゃないんだな。この世界に唯一無二で、代わりのきかない子だから。今ならとつかくんがどんな放蕩と怠惰に身をやつしても、極悪非道な悪行三昧をはたらいても、変わらずずっと見てると思うよ。過激でごめんね!









 

熱海殺人事件 2


殺しに至るまでがぼんやりとして曖昧で、
警察での尋問のシーンはくっきりとしている。
それは、劇場で観ているあいだのことを思い出すと輪郭がぼやけるけど、
その後の日常が細密になったような感覚と似てる。



わたしにとってはとつかくんのことを書くのが一番難しいので、それ以外のことを書きたいと思う。



熱海殺人事件のあらすじはよく「刑事たちがそれぞれの美学を犯人に押しつけ、三流容疑者を一流の殺人犯に仕立てあげる…」とかって書かれるけど、錦織戸塚の熱海(「錦織さんの熱海」ではないのは、あの金太郎くんは多分にとつかくんだと思うから)のテーマは、「愛とは何か」だとわたしは思った。この特殊な事例から見いだされる普遍的な「愛」とは何か、という。名作と呼ばれる古典には、理性的な判断を経ない人間の普遍性が絶対に含まれている。人間とは良くも悪くもこういうものだっていう。そして錦織さんが今回比重を置いたのは、一流の殺人犯に仕立て上げられるまでの戯曲性よりも、金太郎とアイちゃん、伝兵衛と水野くん、熊田さんと内縁の妻、それぞれの愛のありようについてなのではないかと。


カミュの『異邦人』*1に、「健康なひとは誰でも、多少とも、愛する者の死を期待するものだ」という一文がある。たぶん世の中の人はこのテーゼを自然に受け入れられる人と受け入れられない人にきっぱり分かれるんじゃないかと思うけど、もしこれが本当なら、そこで期待されている死はなんだろう。この作品において、とつかくんの演じた金太郎くんはアイちゃんの死をずっと期待していたのだろうか。それともあれは衝動的な行動だったのだろうか。


わたしが思うに、この世で一番生きてほしい人こそ、一番死んでほしい人なんだと思う。なぜなら、それほどまで自分を傷つけられる人間は世界にひとりしかいないから。相撲で大関になった思い出だけを頼りに東京で生きてきた金太郎くんにとって、同郷のアイちゃんに「海が見たい」と弱さを打ち明けられたそのときが、人生最高の瞬間だったと思う。彼女に売春とか整形とか、後ろめたさがあればあるほど、傲慢にも自分が救えると思った金太郎くん。反対に自分自身の田舎臭さや無神経さにも自覚はあって、それを取り繕うことも本当はできるのに、あえてアイちゃんの前では原宿でコーヒーを値切ったり、大きな声で長崎弁でしゃべったりして「この自分の不格好さを知ってて好きでいてくれるアイちゃん」のイメージを自分の中で作り上げ、自己暗示にかけた。それは東京で貧しい職工暮らしをしながら精神を保って生きていくための金太郎くんなりの術だったのかもしれない。だからこそ、金太郎くんは彼女に執着した。大関になった一番なんてダサい思い出を同じように美しい記憶として抱いているはずのアイちゃんは、金太郎くんにとって聖なる存在であり、唯一無二の女の子だった。そうなると器量なんて関係なくなる。その位置を占められる人間はこの世に二人といないから、一分の一でしかない。


けれど愛における所有欲は、相手から与えられるもの(愛情)を所有したいという欲求であって、相手そのものを所有しても心は満たせなかったりする。アイちゃんと結婚して、田舎に帰って、整形した顔を元に戻して、アイちゃんのすべてを引き受けようとした金太郎くんの愛は真実で深淵だけれど、それはアイちゃんの東京での頑張りを完全に否定するものだった。まあわからないよね。金太郎くんは美青年に生まれてしまった子だから。アイちゃんが、好きな人のためでもなく、身体を売って家族を養うために美しくならなきゃいけなかったその孤独を、残酷な金太郎くんは最後まで理解できなかった。その上、相撲で大関になったときのあの美しい思い出を「覚えちょらん」って完全に打ち砕いたその言葉は、金太郎くんにとって自分とアイちゃんの仲を引き裂く憎悪の対象となり、その言葉を発した人間は、その瞬間死に値する者になった。だから、あの海辺のシーンで愛情が徐々に憎しみに変わったというとちょっと違って、極限に達した愛情は本質的に殺したいほどの憎しみを伴うものである、ということだと思う。そうして、自分とアイちゃんの間を裂こうとした人間(それもまたアイちゃん)の存在は消滅し、アイちゃんは今度こそ金太郎くんのものになった*2。だから、殺害後、警察署内の金太郎くんは「喫茶店なんです」とかごく普通に応対してる。その発言もきょとんとした幼い表情も嘘じゃない。アイちゃんを殺したいと思った金太郎くんと、アイちゃんはブスじゃない!ってかばう金太郎くんは、彼の中では矛盾しない。だからわたしには金太郎くんは狂気じゃないように見えたんだ。


あれが狂気でなく正気だとするなら、金太郎くんはもし生まれ変わってもまたアイちゃんに会いたいと思うだろうし、またアイちゃんを殺したいと思うだろう。殺すために出会いたいと思うのが仇敵なら、出会ってしまったら何度でも相手の生死を所有したいと思うのが愛だと思う。だから、金太郎くんは、自分が死刑になれば、アイちゃんが東京でしていた諸々のことが田舎の人たちに知られず、しかも彼女も自分の死に加担させることで、「殺し殺されるほど愛し合っていた僕たち」という二人の世界を終結させることが出来る。金太郎くんにとっては、もう物語は終わっていて、この舞台で尋問室にいるほとんどのシーンは、彼にとってはエピローグなのではないかな。


人を好きになるとさ!この僕を汚して*3とか、泣かないで笑っておくれよ*4とか、とつかくんは寝てくださいとか、要求が多くなるんだよ!金太郎くんの最後の要求は「オイとアイちゃんの愛を引き裂く人間には死んでほしい」だったんだと思う。そこに理性が入る余地はない。繰り返すけど、「そういうもの」なんだ。


この舞台は結局、恋人を殺さなければならなかったひとりの青年についての抒情詩ではなくて、4人の人間(あるいはアイちゃんも含めて5人の人間)がいて、そのようなことが起こったというだけの叙事詩なんだと思う。叙事詩といえばギリシャオデュッセイアとかがそうで、ロマン派的な、個人の内面を描くような叙情文学はごく近代的なもの。だけどわたしたちはそういう見方に慣れすぎていてて、登場人物の情況から結末を理解するとなんとなく腑に落ちたような気分になる。平成の小説は一人称の主人公が圧倒的に多くなっているらしいんだけど、たぶんそれも同じ理由から来る傾向。でもこの舞台ではそうではないところに見どころがあるのではないかと思うんだ。それはどこかというと、例えば金太郎くんが恋人を殺す直前まで「パイレーツに二言はなか☆」とか、とっぽいこと言ってるところとか、大音量の音楽(クラシックだったかな)のなかで「アイちゃあああああん!!!」って絶叫してる金太郎くんとか、理屈じゃないんだけどなんかすごいめちゃくちゃだな!っていうその衝撃そのものが、この熱海殺人事件という舞台のかけがえのない価値なのかなあと思ってる。めちゃくちゃってカオスという意味ではなく、喜怒哀楽が突如入り混じったり、穏やかさと暴力、思いやりと独善が同時に表出したりしていて、演者も観客もこの金太郎くんをどうやって受け止めたらいいのか判らない、感情移入がまったくできない、だけどなんかすごい、という意味で。




こんなに長々と書いているけど、初日の一回しか見ていないし、劇場ではこんなこと考えているはずもなく、とにかくずっと緊張していたので、また次見たら、こないだ自分が書いてること全然ちがうじゃん!ってなるかもしれないです。でも、初日の夜に考えていたことを追究したら、こうなった。という記録として残すことにします。




 

*1:もう聞き飽きたかもしれないけど、熱海殺人事件の創作のベースにはこの小説があるので、みんな読んだほうがいいよ!

*2:この辺りで、錦織熱海における強姦の扱いが気になったんだけど、まあだいぶエグい話にしかならないので自主規制

*3:バニラ

*4:恋ボ

熱海殺人事件

のことで頭がいっぱいだ。しかし観劇直後はうまく言葉にならなくて、時間が経つとだんだん記憶が曖昧になってきて、何かを書いて残したいとは思いつつも、真っ白なテキストエディットを前に書けることなんて何もなくて絶望的な気持ちになった、という話をこれから書きます。


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今、芸術哲学(あえて美学とは言わない)の書物の読書会をしながら、哲学がわたしの閉塞的な思考を解放してくれる実感がにたびたび震えている。学部時代にも哲学の授業を受けていたはずだけど、同じ書物、同じ思想家についてであっても、全然違うようにわたしの前に立ち現れてくる。それは新しい世界への扉なんだけど、扉を開けたらいきなり天も地もない空中に放り出されたような感じで、そういうときにわたしは自分の言葉で言い表すことが全然できない。既存の言葉、出来合いの概念では刃が立たないようなものに向かい合うとき、どんなにいびつな形になっても、口をつぐむという選択だけはしないでおこうとずっと前に決めた。だけど今それは相当にしんどいことで、言葉の技術の問題ではなくて、それ以前のわたしの思考能力の低さの問題なのだと思い知らされて、身を切られるように痛い。なぜなら、明晰な思考ができないというのはわたしの本業(院生業)において致命的だから。認めたくないけど認めざるを得ない、その上でわたしはやっていかなくてはならない。この先まだまだここにいるのなら。


とつかくんの一万字のタイミングで、信頼する友人が言っていたことにわりと大きなショックを受けていて。「何かについて語るときに、何でも自分のほうに引き寄せようとするのは好きじゃない。底の浅さが透けて見えるから」というような内容だったんだけど、あーそれわたしだと思った。三日くらい地の底に落ちてた。自覚はあったし、何より今の自分にとって一番大事なものについて語るときの本質的な誤りについて指摘されたから。そのときはリアルに、ぐさり、って音が聞こえた。どうでもいいことについてどうでもいい人に言われるのは全然気にならないけど、あの一万字は大切な大切なテキストだったし。大阪駅構内のカフェの隅っこで泣いたことは本当なのに、その感極まった思いとわたしの言葉が確かに一致していなかった。嘘だとか取り繕ったという意味で後悔したのではなくて、それを理解するのに、元々自分のなかにある概念や比較対象を借りて来ないと理解できなかった、その程度の関わり方しかしていなかった、ということを思い知らされたのがショックだった。


そして熱海についても結局なんにもうまく考えられない。舞台という生々しいものを言葉で固定化することがもう違うのかもしれないけれど、破片でも残しておかないと、こんなに不定形なものはすぐに蒸散して無くなってしまう。だから書いておきたい。でも書いてみて、後からあれは不適切な表現だったって思ってしょっちゅう滅入る。決して口をつぐまないこと、自分で決めたその原則すら揺らぎそうになる。あの初日に全身で体感した衝撃はなんだったんだろうって、ちゃんと考えたいのに、今ちょっと自信をなくしている。芸術を言葉で捉えるというのは、いつでも絶望的な無力さと壮大な無限の可能性の間にある。







sans pause

「これほどエラーの多いスクリプトはないのに、何故か止まらずに走り続ける、それが人間の仕様だ」


フランスから日本に帰ってきたのは、去年の今日6月16日だった。にのみやの誕生日の翌日に出て行って、にのみやの誕生日の前日に帰ってきた。覚えやすい。一年前のわたしは、お金も仕事もなかったけど、これから何しようかなって自分の未来が自分の手中にあることが嬉しくてしかたなかった。齢29にして、わたしはわたしのやりたいことをするべきだ、ってようやく悟ったのだった。結局ブレーキをかけていたのは環境じゃなくて臆病な自分だったのだと。


それから一年後、まさかこんな生活になっているとは思わなかったけど(こんな生活=日本で大学院生やりながら仕事しながらアイドルに夢中な生活)。でも最初、大学入った4月には、わたしはたぶん仕事かアイドルかどっちか諦めることになるんだろうなって思ってたんだよね。正直自分がこの多忙さにここまで耐性があると思わなかった。先々週くらいに寝不足すぎて多少精神がすさんでたりしたけど、それでもたった1回のゼミ発表ですべて報われた気がしたよ。わたしは本来賢くないし理解するのも遅いし勉強する時間も圧倒的に少ないししょっちゅう滅入っているわりに、結局は学問の場に戻れたこと自体が嬉しくて嬉しくて、そこで原動力が満たされているんだろう。この生活が3年続く予定だけど今はそのことは考えない。今日と明日のことだけ考えてる。持続性とか気にする前に、今わたしには読まなければいけない本、会いたい人、出席したい授業がある。


大学の同期の友人たちに恵まれたのがすごい幸運だった。みんな優秀で魅力的で正直だ。彼女らといるとものすごい劣等感と愛着が同時に襲ってきて、全然かなわない、悔しい、って思うのと同時に、帰りたくないなあ、次また早くみんなに会いたいなあと思う。最初に今の大学の先生に進学について相談したとき、「知識を深めるだけなら在野でもできるのですが、同じ領域の研究者がいる場所に行きたいのです」って話したら、「大学に籍を置く意味というのはそれがすべてだよね」って言われた。つまり、人間同士が知的刺激を与え合うと言うこと。わたしが一番情熱を抱いていることを理解できる人達がいるというのは、それはおそろしいことでもあるけれど、いつも思いがけない方向から反響が返ってくるので毎回チャクラを開かれるような気持ちになる。



ここまで来るのに背負ってきた思いとかさ、そりゃあいろいろあるけれど、そしてここにはそういうことばかり書いては埋め書いては埋めてあるけれど、なんかそういうのを一旦おいとこうって今は思ってる。誰のためでもなく、誰のせいでもなく、自分の中に理由があることが結局全力で生きてるっていうことなんだと思う。ってまた生死の話になってきたからこの辺で。今日はベルクソンの『思考と動き』を読むよ。数学やってた人の文章ってすごいぐっとくる。






入学二ヶ月目

ゼミ発表も2回目を迎えた。今のところ、一ヶ月に一度くらいのペース。
こないだの発表がうまくいかなくて、終わってから静かにへこんだ。いや先生にはそんなに何か言われたわけではなくて、「M1の人はまだ発表の配分がわからないかもしれないけど、事実関係の発表はレジュメとしてまとめておくだけでいいから、文献講読ならそちらに発表時間を割いたほうがいい」というようなアドバイスだったんだけど。



この4月からゼミに入って、わたしは先輩たちのレベルの低さに心底がっかりしたんだよね。修士でやってることがまともに体裁をなしてなかったりして。博士の方の学会発表の予行演習というものを聴かされても、これ外に出したら研究室の名前に傷がつくのでは…と思うほどで。それでいて、今年はどうやらわたしの同期のレベルが異常に高かった。それはもう誰がどう見ても一目瞭然。それがわたしにはすごく刺激になったし、生まれて初めて「好敵手」という言葉の意味を実感した。信頼してるし気軽に相談できる関係だけど、この子たちには単なる友人ではなくひとりの研究者として認められたいなあって。


そう思って、ゼミ発表に向けてずいぶん前から周到に準備してた。でも直前の一週間は仕事も残業ばっかりで帰れなくて、お願いだからわたしに研究時間を与えてくれ…って会社の更衣室で泣いたりした。何よりも睡眠時間が足りなくて身体がつらかった。でもわたしは仕事続けながら大学に通うことを選んだわけだし、会社側にも大学側にも前例のないことで、この心情を分かち合える人が周りに全然いないんだけど、それでも自分で選択したことだからその自分に屈したくなかったし、研究だけをしていられる立場なのに不出来な先輩たちに負けたくなかった。


そうして当日、30分のゼミ発表をした。聴いてくれている先生と学生たちに興味をもってもらいたいと思って、少し俯瞰的に美術史における立ち位置について語ったり、視覚的に補完できるスライドを用意したり、余談的な逸話を入れたり。


でも、その発表中、口では滔々とプレゼンしながら、頭の端っこで気づいたんだよね。わたしが今回この発表に向けて突き動かされていたその動機は、聴衆を「ほお…」と感心させようとした支配欲にあるのではないかと。完全に傲慢。わたしの意識が研究そのものにではなく、これだけわたしは熱心に研究しててあなたが聴く価値のあるプレゼンができるんですよ、ということをアピールしようとしてる自分に行っていることに気づいて、その瞬間、この発表は失敗だと思った。


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その後は、さっさと帰った。こんなことで落ち込んではいられないので、同期にも愚痴りたくなかったし、人前でしゃべってみないとわからないことがわかっただけでも十分収穫だった。だけど、わたしはこんな入口の段階で、真摯に研究に向き合うことを忘れそうになってしまったから、それは一番だめだと思った。他人は関係ない。わたしの前には解読しなければならない謎が山程あるのだから、余所見しないでそちらに取り組むしかないんだ。人前で発表するときのテクニックは、それとは区別して身につければいい。


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こういう話をできる先輩が近くにいればいいなあと思うね。
学部からそのまま上がっていれば、信頼できる院生の先輩たちがいたんだけど、まあ言っても詮無いことだ。

救済


今まで自分を支えてきたのは、無謀と髪一重の勇気だった。そのおかげでわたしは誰にも依存せずに生きられるようになったわけだけど、代わりに失ったものについて考えずにはいられない。わたしはいろんなことに鈍感になり、無痛になり、外部の影響を受けなくなった。摩擦がなくなった。「なお空気抵抗は考えないものとする。」高いところ、遠い場所、手に届かないものを手に入れるために、いろんなものを捨てて軽くなって飛びたかった。


「重さと軽さ、どっちがいい?」と高校時代の彼女に訊かれた。授業中、ノートのはしっこで手紙をやりとりしてたときのこと。わたしは即座に「軽さ」と答えた。彼女は答えなかった気がする。なんでそんな質問したん?って訊いたら、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』について話してくれた。映画より小説のほうが断然良かったとかそんな感想。わたしは受験勉強を終えて最初にその本を読んだ。


クンデラチェコから亡命した国は、わたしにとっても自由で居心地がよくて、今まで日本で息苦しい思いをしていたのが嘘のように呼吸がしやすくなった。個人主義で冷たいと言われるフランス人以上に個人主義なわたしには、あの他人を放っておいてくれる空気が肌に合っていた。一生あの街にいてもいいと思ってた。でもあの同じ街で、彼女は自殺した。去年の6月14日。わたしがパリを発つ前日のことだったらしい。




昨日、彼女の実家にお線香をあげてきた。亡くなるまでの経緯をご家族から聞いた。わたしが送ったメールを彼女は読んでくれていたらしい。でも返事はなかった。返事をしそびれている、とわたしの友人に話していたという。


同じ街にいたのに、わたしは彼女を救えなかった。だけど、誰かを救うということは、何をすれば、どうすれば、何から救えることになるのだろう。会って話をするだけで、彼女を深淵から連れ出すことなんてできなかっただろうと思う。いやむしろ、彼女にはその懊悩のなかに沈み込んでいてこそ書けるものがあって、そうして昇華された詩が彼女の生きている証になるのでは、って考えていたのかもしれない。友人としては、何もできなくてもいいからただ生きていてくれればいいと思っていたけど、詩人としては、もっと素晴らしいものを書いてほしい、彼女の才能は世界に唯一無二のものなのだからって勝手な憧れを抱いていたような気がする。尊敬していたから。


彼女にとっての詩と、わたしにとっての芸術学は全然ちがう。彼女は言葉に対する感受性が特別だったし、きっと書かずには生きられなかった。そしておそらく言葉の海にひきずりこまれて殺された。わたしが芸術学を選んだのは、さして取り柄のない人間が作為的に専門分野を作るためだった。だからわたしがこの学問を何があっても手放さないのは、手放しても生きて行けることに気づきたくないからだ。その辺にあるものを拾って自分のものにしたくせに、その偶然を必然にするためにありとあらゆる辻褄合わせをした。そういう生き方が雑だというのだ。


だけど、鈍感だからわたしや他の人は生きて行けるんだろう。繊細で聡明な人から早く死んで行く。


彼女については、もっと長く生きていてほしかったとはあまり思わない。彼女は短い人生を十分に生ききった。彼女の分まで生きようとも思っていない。ただ、彼女が見ていたものを彼女がどんな風に感じていたのかを今からでも知りたいと思う。わたしはこの春から彼女が在籍していたのと同じ大学院に行く。決して彼女のことがあったからとかそんなに重い理由ではないけれど、クンデラを勧められて素直に読んだのと同じような動機なんだと思う。






 

片思い


仕事しながら夜勉強するのは心身共に負担が大きくて、なんでこんな大変な思いしながらやってるんだろうなーとかときどき思う。でも、早く終わればいいっていうのはあんまりなくて、できることならもう少しじっくり勉強したいけど、今回は期日が決まってるからそれまでに詰め込まなきゃいけないのがもうどうしたって無理!時間足りない!って毎日発狂してるような状態で。


哲学的で感情豊かで、無口で神秘的で手に負えない。そういう人格のようなものを相手にしてるんだと思う。わたしの向き合ってる学問というのは。好きだけど深遠すぎてだんだん遠ざかっていくような気がする。だけどたぶんこれが完全に論理的な言語主体の学問だったらわたしには扱いきれなかったと思うし、反対に完全に制作側に立ったとしても、何か語らずにはいられなかっただろう。万感の思いを込めて書いた文章も、一枚の絵画の前に立てば吹き飛んでしまう。それでも言葉にせずにはいられない。そういう言葉と表現の永遠の相容れなさを肯定できる学問だから、嫌いになれないんだろうと思う。


来週わたしが30歳になる日に大事な試験があって、そのために勉強しているわけですが、もしこれに落ちたら今年のどこかでイタリアに行きたいな。今人生で一番ルネサンスのこと理解してるから、この脳を保ったまま旅に出たい。